あなたと花に酔いて

01

商店街に懐かしい顔が現れたのはちょうど10時半頃のことで、早めに昼食を求める人で賑わい始めていた3月の暖かい土曜のことだった。目的地に辿り着くまでさんざん引き止められ、やっと到着すると11時をとっくに過ぎていた。見上げた看板には「フローリスト」、そしてその隣は「亀屋漬物店」。

あまりにも懐かしく、そして何も変わらないのが嬉しくて浸っていたら、よく響く胴間声が聞こえてきた。

「うおっ、おいおい、誰かと思ったらよ!」
「小父さん! ご無沙汰してます」
「なんだよ久しぶりだな、英雄の凱旋だぜ」
「もういいですよそれー。小父さん変わんないなあー」

女将が強いのでだいたいいつも暇な亀屋の主人が元気な胴間声を上げた。店の前にやってきたのは商店街のヒーロー、藤真である。彼がこの界隈によく出入りをしていたのはもう5年も前の話で、当時高校2年生だった彼は現在22歳、相変わらずきれいな顔をしていた。

「やだあ、あんたちょっとすっかり大人っぽくなって! 元気だった? まだバスケやってるの」
「はい、もちろん。女将さんも元気そうで。実は、今度プロになります」
「おいおい、ほんとかよ! なんだよヒーローがスターだなこりゃ」

女将さんも前掛けで手を拭きつつ店から出てきた。こちらもあんまり変わりがない。ふたりは藤真の報告に目を輝かせて喜んだ。何しろ藤真は同級生の長谷川と並んでこの商店街では知らぬ者のない恩人であり、有名人であり、特に藤真はご婦人方の寵愛を一身に受けるアイドルでもあった。

進学で地元を離れてからは顔を出すこともなくなっていたが、今でもこの商店街で店を構えるお歴々は彼の勇姿を語り草にしている。特に藤真が英雄になったきっかけの事件、通称「商店街大捕物事件」を知らない新入りが現れると、この話を延々聞かされるという洗礼を受ける羽目になる。

ただし、そう古い話ではない上に、誰に聞いても当の藤真が相当な美少年だったと聞かされるので、ここ2年ばかりの間の新入りで、かつ若い女性などは、いつか藤真を拝む機会が訪れるのを楽しみにしていた。

「だけど、ちょっと遠いんです。本拠地」
「そうかあ、だけどいいんだよそんなことは。ずっと応援してるよ」
「あ、ありがとうございます。頑張ります」
「そうよお、テレビとかで試合見られないの」

そんな話をしていると、横から悲鳴に近い声が上がった。

「うわっ、旭さーん! 久しぶり!」
「ほんとに? ほんとに健司くんなの?」
「ご無沙汰してごめんなさい、お祝いもしたかったんだけど、ちゃんとできなくて」
「そんなの、そんなの」

近くで「うどん あさひ屋」を営む大森夫妻の嫁の方、旭さんであった。フローリストの近所の店舗の中では大森夫妻はかなり若く、そのせいもあって藤真たちとも仲が良かった。その上、感激屋である旭さんなので、しばらくぶりの藤真に目が潤み出した。旭さんは30代も半ばを過ぎているが、少女のように可愛い女性だ。

藤真は返す言葉が見つからない旭さんの手を取ると、ぎゅーっとハグをした。しょっちゅう商店街に出入りをしていた彼らにとって旭さんはみんなのお姉さんという感じだった。

「もうさんとこ行ったの?」
「いや、まだ。今来たばっかりなんだけど、ここまで来るのに時間がかかって」
「はっはっは、藤真くん、まただよまた」
「何ですか?」
ちゃん、まーたいねぇんだわ。ま、詳しいことは葉奈に聞きな」

フローリストの店長はいつも大事な時にいなくなる習性がある。

「おー、葉奈ちゃんいるんですか。久しぶりだな」
「時間があったらお店にも寄って。主人も喜ぶから」
「もちろん。昼は兄貴のところで、と思ってたから。後で行くね」

高校時代ハンドボールでインターハイにも出場したあさひ屋の店主、大森夫妻の旦那の方、育太は藤真たちから「兄貴」と呼ばれて慕われていた。若干熱しやすいけれど愛妻家で親しみやすい人だ。

旭さんが戻っていったので、藤真は改めて亀屋夫婦に頭を下げて、やっとフローリストに足を踏み入れた。

「こんにちはー」
「はいはーい、いらっしゃいま――

店の奥から出てきた女性に藤真はさわやかに会釈をしてみせた。葉奈がいると聞いていたのだが――

「あ、ええと、葉奈さんいらっしゃいますか。オレ、いや僕、藤真と申し――
「いい加減にしろ! 葉奈はアタシ!!!」
…………葉奈ちゃん!? 嘘だろ!?」
「嘘ってなんだよ! この薄情者! イケメンのくせに!!!」

藤真はあんぐりと口を開いて目の前の女性を凝視した。葉奈という人物は中学2年生の時点で小学5年生くらいにしか見えない、小さく幼い女の子だったはずだ。だが今、藤真の目の前で悪態をついているのは推定168センチはあろうかというすらりとした美女だ。おかしい。葉奈はこんなキャラじゃない。

「いやいやいや……いくら4・5年経ってるからって……いやいやいや」
「ほんとマジでいい加減にしないと殴るよ。アタシはあんたの顔なんてどうでもいいんだからね」
「いやー、中身は葉奈ちゃんだわー」

当時葉奈は中学2年生、藤真は高校2年生、お互い3年の年は受験や部活で忙しく、藤真たちが商店街になかなか来られなかったせいもあって、葉奈の身長が伸び始めていたことも知らなかった。外見は様変わりしてしまったけれど、中身は何一つ変化がないようで、藤真はちょっと青い顔をしつつ、へらへらと笑った。

「だけど久しぶりだな、元気だったか」
「それはもちろん。店長も相変わらずゲスで元気だよ」
「ほんっとに変わんねえなあ」

フローリストの店長とその娘葉奈はどちらも割と腹が黒く打算的で、またそれをあまり隠そうとはしない父娘だった。藤真は数年前の日々を思い出して懐かしくなり、ドヤ顔で腰に手を当てている葉奈を引き寄せるとポンポンとハグをした。葉奈も歓声を上げて抱き返す。

「なんだかここは全然変わらなくて嬉しいよ」
「イケメンも元気そうだね。どうしてんの、今」
「ふふん、オレ、春からプロになるんだ」
「マジで!?」

一時期、彼らの溜まり場のようになっていたフローリストのバックヤードに通された藤真は、懐かしさのあまりため息をこぼし、思わず畳敷きの床にべたりと横になった。高校2年生の年越しはここで寝ていた。

「てかもー、久しぶりすぎて何が何やら。そっかー、イケメンがプロかあ」
「でも花形の話は知ってんだろ」
「まあ、そこはね。むしろイケメンの方がたちの話、聞いてないんじゃないの」
「そうなんだよな。翔陽出るまでのことは知ってるけど、そこからはざっくりとしか」

激動の3年生を経て、藤真たちは進学で方々へ散らばっていった。基本的には東京の大学だったけれど、全員進学先はバラバラ、家も出て寮に入っていたので、生活の基本がこの地域から離れてしまっていた。

は短大出て、就職したんだっけ」
「うん。なんだか若先生の一件以来しばらくモテ期が続いてて、アタシと透兄ちゃん大変だったんだよ」
「なんかあの花形がと思うと変な感じだけど、あいつらはあれでいいよな」
「まあ、じゃあ、順を追って話しますか」
「てかそのはどーしたよ」
「今日は例の父方のじいさんに会いに行ってる。透兄ちゃんも一緒」
「なんだ、そうか。先に連絡しておけばよかったな」

葉奈はニタリと笑ってバックヤードの上がり框に腰掛け、上を向いて唇に人差し指を添えた。

「みんなが進学して半年くらいかなあ、のママがだいぶよくなってきてさ」
「おお、そうだよ、心配してたんだ。もういいのか」
「おかげさまで。で、急展開。花形母とすっかり仲良くなっちゃって、次の年にふたりでカフェを出店」
「えええええ!!!」
「場所は岩間医院の跡地」
「あ、そうか……それもなあ……後悔してるんだ」
「しょうがないよ、花形家も母しか来られなかったんだし」

80代後半になってもこの商店街のかかりつけ医として愛され頼りにされてきた岩間医師は、いわゆるピンピンコロリで突然この世を去った。当時のトラブルなどでも世話になった藤真や花形たちだが、岩間医師が亡くなった時はふたりとも大学バスケットのリーグ戦の真っ最中で、通夜にも葬儀にも来られなかった。

岩間医院は商店街から伸びる路地の途中にあり、商売をするにも住宅にするにも微妙な場所だが、人通りはあるし、商店街のアーケードからほどよく離れているので静かだ。大繁盛とはいかないが、メルヘン母と苦労人の母ふたりの営むカフェは近隣の女性の癒やしスポットとして愛されている。

「言い方は悪いんだけどさ」
「姑同士だわな」
「葉奈ちゃん……お前ほんっと父親に似てゲスだな!」

そう言いつつも藤真はニヤニヤと楽しそうに唇を歪めた。葉奈の言うように、花形母・朋恵と母・志津香はどうやら本当に姑同士になりそうだからだ。もちろんまだ決定ではないのだが、方向としてはそういう流れになっている。意外にもこのことに積極的なのは花形父・薫さんである。

「親父さん、にはだいぶ同情的だったからなあ。花形も仕事決まったし、まあ当然の流れだよな」
「まあ、その分弟は地獄なんだろうけどね」
「え。航ってまだ……

大学2年生の終わり頃、花形は練習中の怪我で思うようにバスケットができなくなってしまった。それでもなんとか頑張っていたのだが、もちろん藤真のようにプロになどなれない。それから1年以上じっくり自分と話をつけた花形はバスケットと関係ない仕事につくことを選んだ。

またそれを決めた頃には、両親にいずれと一緒になりたいと宣言していた。ふたりともそれを当然の結果として歓迎したし、現在朋恵のビジネスパートナーであるの母・志津香も喜んだ。自分と元夫のせいで娘には大変な苦労をさせてしまったし、むしろ頭を下げてお願いしたくらいだと言って涙ぐんだ。

だが、花形家次男・航はそうはいかない。何しろ兄といい感じになりつつあったを好きになってしまい、兄が部活で忙しい間に健気にもその代理を黙々と務めていた少年であった。

「うーん、それはアタシも全然会ってないからなんとも言えないけど」
「確か、長野だったよな? まだ帰ってこないのか」
「今は京都だよ。なんだかよくわかんない研究をするんだとか聞いた気がするけど」

途中揉めたりもしたけれど、結果として丸く収まった兄とその彼女を見ていられなくなったのか、航は寮が完備された遠くの高校、そして大学に行ってしまった。息子ふたりがいっぺんに家を出てしまって寂しかった朋恵は、そのせいもあって志津香とカフェを始めたというわけだ。その寂しさを埋めてくれると葉奈がいたので、落ち込まずに済んだと回想している。姑(予定)と嫁(予定)は既に関係が良好なようだ。

「あれ? 葉奈ちゃんは翔陽行ったんだよな?」
「店長は私立嫌がったんだけどね。が短大にしたから、例の遺産から援助してもらえることになって」

店長がビビりながら交渉の場に通い続けたおかげで、資産家であったの祖父からは毎年まとまった額の金が支援されていた。一応名目は学費。だが、は時間をロスしない近くの短大を選び、おかげで親子×2の生活は少し余裕が出た。その上、カフェの開店資金にもなった。

「でも私大は許さないとか偉そうに言うもんだからさ」
「それで国立受かっちゃったんだから葉奈ちゃんも根性だよな」
「アタシ、これでけっこう親孝行だと思うんだよね」

どうしても進学したかった葉奈は就職して欲しかったらしい店長に勝負を挑み、まんまと勝った。だが、それも大変な苦労があった。葉奈は経済的な理由であまり長い期間予備校に通うことができなかった。それを補ったのは誰であろう、以前に横恋慕してちょっかいを出していた岩間医師の孫、通称若先生である。

「伊達に医者になってないよね。バカだけど頭いいんだわ、あの人」
「てか、そこに教えろって言いに行けるお前が怖いわ」
「まあほら、アタシの場合国立って言ってもランク自体は低いわけだし」

だがこの若先生、にちょっかいを出したばっかりに岩間医院を継ぐという予定が台無しになり、行き場をなくしてクリニック務めをしていた。その間に祖父を亡くしたこともあって相当反省をしたらしく、ナンパな表情は見る影もなくなり、最近ではまた商店街に顔を出すようになったのだという。

「康太と壮太の時は若先生がいたおかげで大事にならずに済んだからね」
「こうたとそうた……アレか、旭さんの」
「あれもなんだかおかしいよね。治療につぎ込んだ金を返せって兄貴カリカリしてたよ」

あさひ屋は育太兄貴が脱サラして始めたうどん屋である。愛妻との間に長く子供が出来なかったからだ。だが、藤真たちが商店街に通っていた頃に旭さんは突然妊娠。翌年女の子を出産した。葉奈や同様近所で可愛がられている旭さんの娘とあって、初実と名付けられた女の子はあさひ屋周辺で一躍アイドルになった。

だが、あさひ屋夫婦はその2年後にも超展開に見舞われる。また旭さんが妊娠したのだ。

「しかも双子」
「さすがにそれは花形から連絡が来てさ。つい笑っちゃったよ」

子供が授からないなら、一生ふたりで出来ることを始めたい。あさひ屋は長い不妊治療で身も心も疲れた旭さんの気持ちを育太兄貴が拡大解釈した結果である。だが、あれよあれよという間に大森家は5人家族になり、不妊治療に大金を注ぎ込んだというのに、それをやめて7年ほどの間に3人も生まれた。

「別に可愛いからいいんだけどさ、アタシの高校時代ってさ、3割くらい子守なんだよね、って笑うな!」
「ご、ごめん、も大概だったけど葉奈ちゃんも苦労したよな」
「そんな笑いを堪えながら言うな! 3人共いい子だしみんなに愛されてるからいいんだけどね」

何しろ初実ひとりでもお姫様のように愛されたのである。そこに今度は男の子の双子が誕生した。それが康太と壮太。みんなこの3人を自分の孫のように可愛がっている。が、その康太と壮太は予定よりも3週間早く生まれた。大きなお腹を抱えた旭さんが初実を追いかけて転倒、破水してしまったからだ。

「若先生がいた時だったのか」
「いたっていうか、あさひ屋でうどん食べてた。はーちゃんはびっくりして大泣きした後にひきつけ起こすし」

はーちゃんこと初実の悲鳴と鳴き声にパニックは伝染する。何事かと飛び出てきた亀屋の女将さんがその様子を見て血の気が引いてしまい、眩暈を起こして転倒。それを支えようとして咄嗟に手を伸ばした雑貨屋のおじいちゃんが一緒に転倒、肋骨にヒビが入った。

「若先生それを全部的確な指示でさばいてさ。アタシちょっとときめいちゃったよ」

おかげで全員大事に至らずに済んだ。以来、若先生の地に落ちていた信頼は回復する一方で、また商店街に戻って岩間医院を始めてくれよと言われるまでになった。若先生もそれを喜んでいるので、いつかそんな日が来るかもしれない。とりあえず若先生は今後あさひ屋での食事は全て無料となった。

「だけどさあ、はーちゃんがさあ、若先生大好きでさあ、ほんとにもう顔がいい人間ていうのは」
「葉奈ちゃんだって人のこと言えた顔かよ」
「アタシは中身がゲスでバランスとれてるからいいの」

無料だからといってあさひ屋でばかり食べるのは気が進まないけれど、育太兄貴と旭さんは来てくれというし、仕方なく若先生は初実によくおもちゃや絵本を買ってくるようになった。しかもこの若先生、元々藤真並みのイケメンなのである。小さなレディはーちゃんはすっかり若先生の虜なのだという。

「てかお腹すいたね。あさひ屋行こっか」
「え、店はどうすんの」
「小父さんに頼む。休みでもないのに店を空ける店長が悪いんだからね」

が就職してしまったので、アルバイトを雇う余裕のないフローリストは基本的には店長がひとりでやっている。娘もできるだけ手伝ってはいるが、自分の収入にはならないし、店長が休みたい時に店を押し付けられるので葉奈はずいぶん投げやりになっている。

「おお、いいよいいよ。ゆっくり食べておいで」
「すみません、急に」
「なあに、もうこれも10年近くやってっからね。花にもずいぶん詳しくなったもんだよ」

本当の名は鶴橋さんだという亀屋の小父さんはよく響く胴間声でガハハと笑った。小父さんはもちろんラッピングやアレンジメントは出来ないが、鉢植えなんかを売るのは問題ないし、花束などの注文であればきちんと書き留めておいてくれる。

そう長い時間ではないし、藤真と葉奈は小父さんに後を任せてあさひ屋に向かった。