プラクティス・デイズ

01

どうかすると、桜が散って久しいとは思えないくらいに冷えることがある4月も末の金曜の夜。翌月にはインターハイ出場をかけた県予選が始まるという状況にも関わらず、日曜に講演会を行うという理由で体育館が使用禁止になってしまった。金曜の午後だけならまだしも、明日の土曜も清掃と装飾を施すために朝から禁止。

「いい迷惑だよなー。誰よこのオッサン」

主将の藤真が面白くなさそうにモノクロ刷りのプリントを投げ捨て、部室のパイプ椅子に座ったまま足をバタバタと踏み鳴らしていた。オッサンは翔陽の卒業生で、なんだとかいう大きな地元企業の創業者で社長だか会長だか、そんな肩書きである。

「卒業生なら在校生に迷惑かけるなよな、いい年して」

それにはまったく同意だと思いながら、花形は夜の街をランニングしていた。少し肌寒いが、藤真と駅前の有料コートで練習をした後なので気にならない。それよりも、歓迎会と思しきスーツの群れが多い方が気になる。酔っ払いには嫌悪感しか感じなかった。

とはいえ、スポーツ推薦で県外から入学した花形の住まいはこの駅前から10分ほど歩いた場所にあり、住宅街を走るよりは少し駅に近い方がトラブルがない。むやみに人気のない場所で走ると、身長のせいなのか怖がられやすく、ひどい場合は通報される。そしてランニングしていただけなのに叱られるのだ。早く帰りなさい、と。

早く帰ったところで、誰もいないひとり暮らしの部屋で筋トレくらいが関の山だ。部活を基準に学校を選んだ結果、学業の方は余裕があるというのも手伝って、時間を惜しんで勉強まで詰め込む必要もない。

近年になり、越境入学者のための寮への入居者が減り、花形のように個人で部屋を借りる場合が増えてきた。体の大きさに比例した寝具が入らないのだ。一般的な国産ベッドの長辺は195センチ。ほぼそれに等しい身長であるバスケット部員はだいたい海外製のベッドパッド持参で入学してくる。

彼もまた身長が190センチを突破した時点で、見るに見かねた親が捜してきた海外製のベッドパッドを大事に使っている。しかし、そのベッドパッドは学校の寮用アパートの部屋に入らなかった。いや、入れることは出来ても、部屋の中にベッドしか置くことが出来ないという状況。そういう生徒は已む無く個人で部屋を借りている。

高校生からひとり暮らしという生活環境に、自宅から通っている同級生たちは食いつくのが早い。1年生の1学期はほぼ毎日誰かしら遊びに来ていて、基本的に帰らない。すぐに溜まり場になってしまった。だが、部活で忙しい彼に合わせて遊びに来たいのではなく、溜まり場が欲しいだけの連中は徐々に来なくなった。

その代わり、部員が溜まり始める。この場合は基本的に先輩が来る。1年生はすぐ疲れてしまって、大人しく帰る場合も多いからだ。その中でしょっちゅう遊びに来ていた1年生は藤真だけである。目的は基本的に宿題。

これが落ち着いたのは2年生の夏、インターハイが終わった頃だった。先輩は引退が迫っているし、同学年は新体制が迫っているし、後輩は来ない。途端に静かになったが、花形は騒がしいのを好むわけでもないし、宿題や空腹を持て余した藤真は変わらずやって来ていたから、もちろん寂しいなどということもなかった。

3年生が卒業してしまうと、たまにスタメンや同学年の部員が部活帰りに立ち寄る程度で、毎晩静かに過ごすことが出来ていた。今夜も帰れば同じように静かに過ごして眠りに就くだけ。

腕時計を見ると、22時になろうとしている。そろそろ帰るかと考えた花形の目に、馴染みのある制服姿が飛び込んできた。しかも女子。翔陽という高校は部活動に熱心な校風で、男女の別なくあまり荒れた生徒がいない。学校に一番近い駅から2駅であるこの街でも、こんな時間帯に翔陽の制服は滅多に見かけない。

予備校や学習塾は駅を挟んで反対側に集中しているし、今花形が走っていたあたりは1本道を逸れれば基本的に飲食店しかない。しかも、酒を出す店舗が殆どで、つまり真面目な高校生なら深夜にうろつくような場所ではない。その翔陽生徒と思しき女子は、酔っ払いのオッサンに絡まれてる。

思うところあって荒れているなら知ったことではないし、人通りは多いのだから放置しておいてもいいだろうと花形は考えていたのだが、その横顔を見て割って入ることを決めた。オッサンに擦り寄られて逃げ腰になっているのが同じクラスのだったからだ。真面目で静か、周囲に大人っぽいと囁かれる謎の多い女子だ。

人通りは多いし、オッサンはスーツ姿で単独、自分は2メートル弱。安全に助け舟を出すことが出来ると判断した花形は、足を速めた。いくらクラスメイトが困っていても自分が巨体でも、刃物でも持っていそうな相手に単身乗り込んでいくような愚かな真似はしたくなかった。

、何してるんだこんなところで」
「うおおっ、なんだ兄ちゃんでっけえな、先生かよ」
「あ。何って、そっちこそ」
「小父さんねぇ、こんな時間に制服でうろうろしてるから叱ってやろうって」
「家、この辺なのか?」
「あー、まあそんなところ」

あまり表情のないは、オッサンに腕を掴まれたまま淡々と答える。

「この人、知り合いか?」
「ううん、知らない」
「小父さんはねえ、お嬢ちゃんが心配でえ」

花形は、腕を掴む手をしきりとこすり上げるオッサンの肩に手を置き、から引き剥がした。

「あにすんだよお、小父さんはなあ」
「痛くないか?」
「平気」

痛むようなら交番に突き出そうと思っていた花形だが、そうでないなら未成年である手前、こちらも関わりたくない。グラグラ揺れながら支離滅裂なオッサンを置いて、花形はの手を引いてその場を離れた。

「家、どの辺?」
「あ、ごめん、駅前」
「駅前? じゃ逆じゃないか、帰る途中だったのか」

車は多いが人通りの少ない通りに出た花形は、の手を離して歩いていた。

「ううん、あの奥に安い漫喫があって」
「こんな時間からか?」
「まあね。花形は自主トレ?」

どう見ても自主トレなので花形は返事をしない。まあねで済ますなと思うが追求する気もなかった。

「じゃあ戻るか、金曜だし人多いし、送っていくよ」
「あ、平気平気、また漫喫戻るからこの辺でいいよ」

髪をふわりと跳ね除けたは、そう言って片手を挙げた。だが、基本的に真面目な生徒ばかりの翔陽で3年も過ごしてきた花形には聞き捨てならない台詞だった。

「戻るってお前、もう22時だぞ。帰れよ」
「終電まで帰れないんだよね、他に行くところもないし」
……終電過ぎたらちゃんと帰るんだな?」
「うん。平日だから、1時20分だったかな」
「じゃうち来れば?」
「えっ、いいの?」
「ここにいるよりかは安全だろ」

ずっとぼんやりした表情をしていただったが、その言葉で初めて頬を緩ませて歯を見せた。派手さはないが目尻の辺りが甘く、笑うと印象が和らいでなかなかに可愛らしい。夜の闇に白い肌が際立つ。

「花形がシリアルキラーとか欲求不満じゃなきゃ、ね~」
「そりゃ保証できねえな。ひとり暮らしだし」
「ああ、地元じゃないんだ。なんだっけ、バスケ部だっけ」

そんな軽口を叩きながらも、は歩き出した花形について来る。誘った方も付いていく方も軽率なのかもしれないが、要するにふたりとも割と頭が固くて生真面目で、それは相手も同じとわかっている。

強いがゆえに厳しいバスケット部所属の花形の堅物ぶりは知られたところであるし、また、部活に熱心な花形にとって部の醜聞になるような行為は即自分の首を絞める行為であるから、例えが一時の感情で服を脱いで迫ってきたとしても、躊躇わずに抗うだろう。

こんな時間から漫画喫茶に行く理由、終電まで帰れない理由、それも多少気になるけれど、物騒な理由ではないことは想像に難くない。たかが1ヶ月弱のクラスメイトでも、例えば思慮分別に欠ける軽率さなどは微塵も感じないタイプの女子。それが花形のに対する印象だった。

バスケット部のことを話しながら花形のマンションへと歩く。つい自分のスピードで歩いていた花形だったが、はよい姿勢でスタスタとついてくる。話し方も静かだがはっきりしていて、聡明さを感じさせる。ミステリアスが高じて不気味だと言う向きがあるようだが、そんな風には微塵も感じられない。

「バスケ部ってあれだよね、藤真?」
「今主将やってる」
「ハイスペックだけどバカだよねあいつ」
「バスケ選手としては本当に高校トップクラスなんだけどな」

1年2年と同じクラスだったらしく、は真顔で藤真をバカだと言う。基本的に、翔陽で藤真に幻想を抱いていないのは、2年次に同じクラスで修学旅行を共にした人々である。一週間の旅の間に色々剥がれ落ちたそうだ。特に女子からは風当たりが強い。

「私部活やってないからよく解んないんだけど、強いんだっけ」
「一応神奈川では1、2を争うチームなんだけど……
「なんだけど?」
「なかなか1位になれない」

時期が近いこともあって、この話題になると花形は表情が険しくなる。それを敏感に察知したはすぐ話題を変えた。他校の同学年に圧倒的な強さの選手がいたり、インターハイでは藤真が縫うほどの怪我を負わされたりと、翔陽はなかなかに苦難が多い。

そうして歩くこと約10分、花形の住まいである古びたマンションに到着した。

「ひとり暮らしでこれ? すごいね」
「体がデカいもんでな、寮は狭すぎたんだよ」
「まあそうか、ワンルームなんて小さいもんね」
「古いから大したことはないよ」

ワンルームよりは広い必要があるが、その分割高になる家賃を抑えたい花形の両親は学校から遠すぎず、かつ近くに誘惑の種になりそうな場所がないこの古いマンションを選んだ。駅から近くもないがバスを使う距離でもない、近くにスーパーもないという立地で1LDK。空室ありの看板が錆びている。

「おじゃましまーす」
「汚いけど」

挨拶のような感覚で「汚い」と言った花形だが、汚れてはいない。壁やキッチンは古いせいでそう見えなくはないが、清潔に保たれている。なお、1LDKとは言うが、明確なDはなく、キッチンから続きのLがあり、襖仕切りの部屋がひとつあるだけという年代ものらしい物件だ。

「冷蔵庫に飲み物とか入ってるし、電気ケトルあるから沸かしてもいいし、好きに使っててくれ」
「隠したいものとかないの?」
「そういうのは藤真が持ってくるから大丈夫」

襖仕切りの部屋に入り、着替えを用意してタオルを肩にかけて戻ると、はなるほど、と頷いた。

「テレビつけてもいいし、あとそこの紙袋は藤真の漫画だから読んでてもいいぞ」
「ありがと。私が言うのもあれだけど、ごゆっくり~」

あまり緊張しないタイプなのか、はこたつテーブルの脇にぺたりと座って手を振った。その言葉に送られて花形はバスルームに向かう。このマンションはバストイレは別。バスタブ自体は小さいが、ワンルームのユニットバスではあまりに狭いので、この点でも都合がよかった。

不思議と女の子が自分の家にいるということへの緊張はなかった。服を脱いで裸でシャワーを浴びていても、普段と変わらない感じがした。いつもと違うのは、下着だけで出て行かれないというくらい。また送っていく都合があるから、長袖のTシャツに着古したジーンズを着込む。

バスルームから戻ると、はテーブルの上に何かのテキストとノートを広げていた。

「お帰り。アイスコーヒー淹れといた」
「気が利くな。ってか真面目だな、今日宿題なんかなかったろ」
「奨学金狙ってんの」
「へえ、大変だな」

が用意しておいたアイスコーヒーがシャワーで温まった体に気持ちいい。の左隣の辺に座り、手元を覗き込む。英語らしい。しかも、現在の授業の範囲ではないようだ。

「花形は大学もスポーツ推薦とかそういう?」
「上手くいけばな。今年の夏次第だろうな」
「そしたら受験、ないんだよね。いいなあ」
「わかんないぞ、そんなの。藤真あたりはあちこちから来るだろうが……

その言葉には口元をにいっと引き上げて笑った。

「バスケはともかく、バカでもいい所から話が来るといいねえ」
「まあ、いいんじゃないか、そっちは疎かにしても」
「うわあ、ますますバカになっちゃうよ」

ニヤニヤしながらテキストをパラパラとめくっていたは、ふと手を止めると空を見つめながらぼそりと呟く。

「ねえ、ひとり暮らしってどんな感じ?」
「ずいぶん漠然としてるな」
「大変?」
「オレはそうでもない。部活で学校にいることが殆どだし」

はパチンとテキストを閉じて頷いている。

「大学入ったらひとり暮らしするのか」
「そう考えてるんだけど、どうやったらいいのかよく解らなくて」
「そりゃひとりじゃ無理だろ、親に決めてもらったりして……
「うーん、出来れば自分で何とかしたいんだよね」

終電が過ぎるまで帰れない、妙に大人びている。奨学金を目指していて、進学で家を出るのも自力でやりたいという。花形はなんとなくではあるが、のこの飄々とした雰囲気の元凶を見た気がした。本人は至って真面目だが、家庭環境に難があるのだろう。

「けど、どっちみち未成年なんだから親がノータッチてのはまだ無理じゃないのか」
「そうだよねえ……ひとりで何とかなる進路ってないかなあ」

ぼんやりと言うが、そんなことを考えざるを得ない状況はかなり深刻ではないのか。花形はそう思うが、敢えて口に出さなかった。のプライベートなことだし、力になってやれないなら無責任なことを言うべきではないと考えたからだ。

花形はちらりとテーブルの上に投げ出していた携帯に目を落とす。22時48分。終電が出るという1時20分まではまだ時間がある。寝てしまおうかと思っていたのだが、思わぬ珍客でそうもいかなくなってしまった。幸い明日は学校で朝練が出来ないので、起床は早くなくていいのだが。

「テレビ、つけても平気か」
「あ、もちろん。私が邪魔してるだけなんだし。バスケのDVD?」
「いや、映画。昨日、途中まで見て寝ちゃったんだ」

静かな音を立ててDVDプレイヤーが起動し、黒一色のテレビに鮮やかな色が点る。

「うわ、プロメテウス! 続けて見ないと混乱しない?」
「昨日からけっこうしてる」

そこそこハードなSFホラーの後継作だ。こんなのも見るのか、と花形は意外に思うが、それも言わない。

「色々荒いところはあるけど、いいよね、この無機質で途方もない感じ」
「ああ、そうだな」

花形の斜め向こうで、はテーブルに肘を着いてテレビ画面を見つめている。暗い画面では、登場人物たちが次々と悲劇に見舞われる。重なる悲鳴、恐怖を煽る音楽、温かみのない色。それを見つめるの目も、涼やかといえば聞こえがいいが、やけに冷たく感じた。