ウェルメイド・フィクション

01

重いバッグを肩にかけるのは好きじゃない。リュックならいいけれど、片方にかけてしまうと体が歪むような気がする。長時間長期間続けば本当に歪むのかもしれないけれど、たかが1時間やそこらでも何となく気になる。

それでも今日はたくさんの資料を持って帰らねばならず、岡崎慧登は左肩にかけたバッグの重みに体が曲がらないよう、右側に傾きながら金曜の夜の街を歩いていた。バッグに添えた左手の手首には銀のバングルが嵌っていて、平たくて飾りのない表面に小さな文字が刻まれている。

Kate Oz

これは最近彼女が仕事で使っている名前である。ケイトはそのまま本名から。外国人のような名前なので、苗字の岡崎を縮めてオズ。ケイト・オズと言えば短くて言いやすいし、誰にでも「岡崎さん」ではなくて「ケイトさん」とか「ケイト先生」と呼んでもらえる。

現在ケイトはダンス教室の先生と駆け出しの振付師の2足の草鞋を履いている状態で、毎日忙しくしているけれど、子供の頃からの夢であったテーマパークのダンサーを退職してしまったので、気持ち的には薄っすらとした不安を抱き続けている。ほぼ完璧な社会保障をほとんど無くしてしまったことが余計に彼女を不安にさせている。

それ以前にケイトは県下有数の名門女子校を出ており、出身者の進路は毎年進学率ほぼ100パーセント、それも内訳は99パーセント4年制の大学。彼女自身も中学入試前の模試での最高偏差値記録は68である。ダンス教室の先生と振付師など、過去に例がない。というか芸能職自体、恐らくケイトが初めてのはずだ。

そんな状況なので親はとっくに諦めているし、社会保障がないことに関してもダンスの専門学校に進学を許してもらった時既に釘を刺されていたことだ。10年前にはわかっていたことだ。それでも就職したテーマパークがしっかりしていたので、当時は何も不安がなかった。

何であんなちゃんとしたところ辞めてフリーになんかなったんだ、とは誰にでも言われる。専門時代の先生からは普通に「バカ」と罵られた。けれど、ケイトはテーマパークを退職した時からずっと「定年まで踊れるわけがないんだから、それが少し早まっただけ」と言い聞かせ続けている。

ついでに言えば、数年前に結婚した兄が血迷って同居をしたいと言い出し、妊娠中で素早く対処できなかった兄嫁の意向を完全無視で、両親とともに二世帯住宅を建ててしまった。もうそこにケイトの部屋はなかった。

安定した職場と安全な家も失い、現在ダンス教室のビルのオーナーが持っているアパート住まい。汚いボロアパートというわけではないけれど、実家にいる頃は兄の部屋が空いていたので、ちょっとしたダンスの練習ならそこで出来たのに、それもなくなってしまった。

ケイトは重いバッグを背負い直すと、朝もやのように静かに纏わりつく不安な考えを振り払い、背筋を伸ばす。この重いバッグはそれでもこうして仕事がもらえるということの重みそのもの。このバッグが重くて荷物を投げ出すことは、この状況から逃げることと同じ。踊りが仕事になる間は絶対に逃げ出したくない。

ケイトがダンスに魅了されたのは、地元のデパートで春休みに開催されていたイベントでのことだ。デビューしたての無名のアイドルがヒラヒラしたスカートで踊っているのをケイトは母親の手をぐいぐい引いて最前列で食い入るように見つめ、ショーが終わるなり「ケイトもダンスしたい!」と大声で叫んだ。

その時の気持ちだけは、今でも変わっていない。

食べ物の好みや好きな音楽やファッションや、ライフスタイルに関わる全ては季節が変わるようにコロコロと形を変え姿を変えて、いつしかケイトの個性として残るものもあれば、旅の思い出のように遠くに置いてきてしまったものもある。けれど、ダンスだけは別だ。

岡崎家は全員揃って高学歴な家系ではない。しかし、学力で言えば母方の祖母が桁外れに頭のいい人で、ケイトの出身校である聖アナソフィア女子学院に通っていた。アナソフィアは母娘代々アナソフィアという生徒がとても多い学校でもある。しかしケイトの母親はアナソフィアを落ちた。

ケイト自身は特にアナソフィアに対する執着がなかったのだが、祖母はアナソフィア以外認めないと息巻いていたし、その話になると過去を思い出してムキになる母親にもゴリ押しされてアナソフィアを受験した。結果、ケイトは無事にアナソフィアの狭き門を突破したわけだが、そのせいで余計に母親との関係にヒビが入った。

じゃあ何でアナソフィアに入れようとしたんだという疑問は残るが、そこは彼女の母親にも矛盾した複雑な感情が渦巻いていた。そしてケイトが大学進学をせずにダンスの専門学校に行きたいと言い出すと、当時まだ存命だった祖母は怒り狂ってケイトを叱りつけた。自身はアナソフィアまでで、進学できなかったからだ。

アナソフィア女子というものは家庭でも学校でもきちんとした、しかし行き過ぎでない「躾」をよく仕込まれている。そのせいでケイトも思春期にしては大人しくて明るい女の子だったわけだが、自身の将来に直結する進路の話になるに至り、自分の母親と祖母の歪みが負担になってきた。

何しろここ40年ばかりのアナソフィアで大学進学以外の進路といえば結婚くらいで、それももう20年近く聞かない話だというし、そういう進路を望んだ自分が異質なのだということはわかっている。けれど、アナソフィアは金持ちの女の子が通う学校ではないし、生徒たちは自発的に進学を望むだけで、決して学校はそれを強制しない。

というのはまあ、表向きには、と言ってしまえるかもしれない。もちろん担任は「大学行かないと後で後悔するぞ」なんてことは言わない。しかし、専門なんか冗談じゃないと不満を露わにする母親や祖母たちの方が世事に長けているのだから、よくよくお話を聞いた方が岡崎さんのためだと思うとは言われた。

これを逆効果という。

ケイトは自身のダンスへの熱意を選び、友人であるの家に逃げ込んではストを起こすということを繰り返した挙句、母方の家族と話していると埒が明かないので、父方の祖父に助けてもらって専門進学を勝ち取ったわけだ。ところが、これがきっかけで岡崎家はケイトを挟んで父方母方が余計な火花を散らし始めた。

しかしケイトが専門と決まってしまった以上、もう覆しようのない敗北が決まったも同然の母と祖母は6歳年上のケイトの兄をちやほやするようになった。ちなみにこちらはアナソフィアと縁がある翔陽に入れられる予定だったのだが、翔陽なら滑り止めという偏差値を叩きだしたので、県立の進学校に入った。

当時大学を卒業して社会人2年目であった兄は、常に妹より蔑ろにされていた10代とは打って変わって母と祖母に頼られるようになったため、以来深層の部分でマザコンとババコンが年々進行しており、結果嫁を無視して二世帯という地獄コースを選ぶに至る。嫁も大人しいだけの人ではない。離婚へのカウントダウンは始まっている。

幸いマザコンとババコンが進行する兄は就職と同時に独立していたし、ほどなく大学時代の後輩である女性と結婚、ますます兄を持ち上げる母と祖母だったが、その頃ケイトはテーマパークのダンサーになるという小学生の頃からの夢を実現させたばかりで、そんなことに構っている暇はなかった。

それでもテーマパークの運営母体が兄の務める有名企業に匹敵するくらいの安定した会社だったことがケイトを守っていたと言えよう。実家住まいだったけれど、静かな生活を守るための代償と思って収入の4割を家に入れ、家には寝に帰るだけという意識を常に心がけていた。

なので、テーマパークを辞めて以来、ケイトは収入は減るわ社会保障はないわ、その上祖母が亡くなったことで目の上のたんこぶが取れて余計に頑なになった母親から逃げ回りながら仕事を求めて奔走していた。

というところにトドメの二世帯住宅である。ケイトは渋々実家を出ると、ダンス教室のビルのオーナーの口利きで部屋を借り受け、何とか寝場所は得た。それももう1年近く前の話になる。家に入れていた金額が多かったせいもあってケイトの貯金はほどなく尽きてしまい、以来ギリギリの生活をしている。

中高と仲良しだったアナソフィアの同級生であると緒方時枝とは今でも付き合いがあるが、この中で一番収入が多いのはで、しかしそれは緒方も劇作家を目指して修行中の身であるからゆえであり、つまりも飛び抜けて高収入というわけではない。ただケイトと時枝よりはマシだというだけだ。

それでもはたまに緒方と一緒にケイトを食事に誘ってくれて、体力仕事なんだからたくさん食べなよと食べ放題を奢ってくれたり、お米を送ってくれたりする。申し訳ないのと嬉しいのとで、ケイトはよくから届いた荷物にすがって泣いた。

さて、そんなケイトだが、肩に担いだバッグの中はアイドルのDVDが大量に詰まっている。つい先日、ようやく得たコネクションを通じて地下アイドルの振付の仕事をもらったからだ。これまでレビュー中心だったので何しろノウハウがない。それを正直に申し出たところ、資料として大量のDVDを貸与されたというわけだ。

一応その地下アイドルの方も、ただミニスカートをヒラヒラさせるだけでなく、ショーアップに注力していきたいというグループだそうで、その点ではケイトはうってつけなのだが、それでもキャラクターショーと同じには出来ない。これから期日までにこのDVDを参考に振り付けを作っていかなければならない。

振り付けをしようにも場所がないじゃないかという現実的な問題はあるが、一応ダンス教室は21時に終わるし、その後なら使ってもいい、ただし電気は1個だけねと許可をもらっている。ないよりはマシだ。

それにしても腹が減った。地下アイドルをプロデュースしている御仁は絵に描いたようなバブルのオタクで、スカスカの髪を金髪に染めて服装も派手で、何かと言うとバブル期に豪遊していたことを自慢するような人だったが、打ち合わせ中はひとりでバクバクと食事をし、ケイトの頼んだコーヒー1杯540円もきっちり徴収して帰った。

540円あったら大盛りの牛丼が食べられるじゃないか、バーカ。

その上自分の出身大学の自慢が始まった時には、頑張って腹に力を入れていないと吹き出してしまいそうだった。そんな大学、アナソフィアじゃ鼻で笑われるレベルだっつーの。しかしそう考えた直後に自分で自分が嫌になった。アナソフィアという名門校のプライドなど、ダンスをするのには無関係だ。

偏差値の高い名門女子校の出身でも、ケイトは腹をグルグル言わせて街を歩いている。冷蔵庫の中身が心許ないけれど、今日の食費として使える金があと300円ほどしか残っていない。カップ麺は安いけれど、出来るだけ食べたくない。植物性のタンパク質が必要だ。

しょうがない、のお米はまだあるから、スーパーで納豆を買って帰るか。駅前の激安スーパーなら、きっと見切り品で3パック50円くらいの納豆があるはずだ。それを全部ご飯の上にかけて食べれば、少なくとも空腹は満たされるはず。満腹になったらじっとしてDVDを見て、小腹が減る前に寝てしまおう。

ああ、おいしい食事がしたい! お酒も飲みたい! 素敵な人とゆっくりお話をしながらグラスを傾けて、ありとあらゆる芸術について、音楽について、また文学について語り明かしたい。私のアナソフィアプライドなど木っ端微塵にしてくれるような、そんな素敵なおじさまはいないもんだろうか。

二次性徴に突入して以来、ケイトは一貫して「老け専」であり、若造に興味がない。だが、おっさんなら誰でもいいかと言われればそんなことはない。よく同性愛を公表している人がいると、顔見知りになった同性が「自分はノーマルだからね!?」と言い出すが、同性なら誰でもいいなんていつ言ったよ、という話である。それと同じだ。

おっさんはおっさんでも、歳を重ねることを受け入れられず、いつまでも若くいたいが口癖の輩は論外だし、若い友人が多いことを自慢する手合も大嫌いである。若い自分に合わせて欲しいわけじゃない、おっさんであるあなたに私が合わせたいの! というのがケイトの性癖である。若いのがいいなら本物の若者でいいんだから。

20代もそろそろ終わろうとしている今はそれでもまだ、おっさんとの恋愛のハードルは低くなっているはずだ。しかし10代の頃は地獄だった。恋愛に頭を悩ませる友人たちを羨ましく思いながら、どうしても同じ高校生の男の子にはときめかない自分がいて、しかし恋をしたい心を持て余していた。

素敵なおっさんはだいたい妻帯者だし、不倫は大嫌いだし、おじいちゃんでもイケるけれど、あまり年が行き過ぎているとそれはそれで問題も多い。妻を亡くして以来独り身を通しているインテリのおっさんがその辺に転がってないかなと思うが、普段が子供相手のダンス教室と地下アイドルではそれも難しい話だ。

お腹減った! 彼氏欲しい! 疲れた!

ケイトは背中が丸まっていることに気付いて、慌てて体を起こす。ダンサーたるもの、姿勢が悪いのは疲れた自分でも許せない。いつの間にか俯いていた顔も一緒に上げる。シャキッとしよう、大きく深呼吸をしよう、負けてたまるか! 私は胸を張って生きたい、笑顔で踊っていたいのだ。

と思った瞬間、前から来た人と衝突した。ケイトは吹き飛び、重いバッグも派手な音を立てて落ちた。

「すみません、ごめんなさい大丈夫ですか、お怪我は――えっ」
「こ、こちらこそすみま――あれ!?」
「ま、間違いじゃないよな? 岡崎ちゃんだろ」
「うわ、嘘、ほんとに? え? マジで?」

ケイトが顔を上げると、よく知った顔が彼女を見下ろしていた。高校時代、学校の外でさんざん一緒に遊んで過ごした仲間のうちのひとりで、言わば親友だった人だ。差し出された手に掴まって立ち上がったケイトは、懐かしさと嬉しさのあまり、髪が逆立ったような錯覚を覚える。

「高野、ほんとに久し振り……!」
「何年ぶりだ? 前に会ったのっていつだよ」
……もしかして成人式じゃない?」
「そうだっけ!? マジかよ8年ぶりかよ」

関西の大学に進学した高野こと高野昭一は翔陽出身で、遊び仲間だったグループのひとりだ。前述のと時枝もその仲間だったが、この高野だけ進学先が遠かったために、高校卒業後は2度しか会っていない。そのうちの1度が成人式だ。その日はその遊び仲間で集まって遊んだ。

多少顔に年齢がでている他は、高野はほとんど変化なし。190センチを超える体を少し屈めて喋るその姿も高校時代のままだ。懐かしくなったのと、高野の様子が自分のようにド貧乏に見えなかったので、バッグを拾い上げたケイトはそれを高野に押し付け、にっこりと笑って言い放った。

「高野、ご飯奢って!!!」