ハート・オブ・ゴールド

03

一方その頃、3年間好きなだけ遊んでおけと言い捨てた当人は、部内で冷や汗をかいていた。

IHの予選の頃まではまだよかった。毎日練習はハードだし、家に世話になりたくないあまりに彼は自炊を始め、料理なんて簡単だと思っていたけれど、どうにも自分の思った味にならずに四苦八苦、勉強の方はだいぶ適当になってしまったけれど、健司は毎日バスケットと料理の練習に励んでいた。

やがて合宿やIHなどで距離の縮まってきた部員たちと何泊も同じ屋根の下で過ごす機会も増えてきた。毎日ハードな練習で疲れてはいても、そこは一応高校生男子である。じわじわと個人情報が漏れていく。

「いや別に親父同士が友達なだけで……
「幼馴染ってやっぱ朝起こしに来たりすんの?」
「発想が古臭いしベタすぎんだろ」
「子供の頃一緒に風呂入ったりした?」

同学年の親しい部員たちに質問攻めにされて、健司の頭はフル回転、エアコンが効いているのに汗が滴ってきそうだ。が朝起こしに来るどころか、中学生までの健司は家で寝起きしてばかり、風呂なんか幼稚園の頃は当たり前、というか幼稚園まで遡ると同じベッドで一緒に寝ていた。ほとんど双子だ。

だけどそんなこと言えない。にあれだけ啖呵切った手前、自分の仲間には「実は……」なんていう卑怯な真似は出来ない。当然健司は自分からと幼馴染なのだなんていうことは言いはしないけれど、どこから漏れたか、入学式でやたらと目立ってたあのふたり、幼馴染らしいという噂はすぐに広まった。

はあまり交友関係を広げずに隠れるようにして生活しているようだが、健司の場合はそうもいかない。バスケット部は校内で1番実績もあるし部員数も多いし、その他大勢の部員で埋もれていられるならまだしも、早くもエース扱いである。望まなくても交友関係は広がるし、連絡先交換はセーブしないと付き合いきれない。

「そうか……朝起こしに来た幼馴染に布団めくりあげられて悲鳴上げられるってやつは都市伝説だったか」
「花形、お前ほんとド変態だな」
「いやそれわかるわー、そういうの日常茶飯事なのに、いきなり意識したりし出して」
「風呂入ってるの気付かなかくて入っちゃったりな! そんで親のいない夜に、っていう」
「アホか」

楽しそうに妄想を垂れ流しているのは花形と高野。それをニヤニヤしながら聞いてるのが永野、無表情なので考えが読めないのが長谷川。その中で健司はひとり、興味ねえよという顔をなんとか保つ。彼らの夢見る妄想には申し訳ないがの部屋と客室にはバスルームがあるし鍵もかけられるので、あり得ない。

そういう漫画に登場するような幼馴染ネタで言うなら、中学生の頃に、がバスルームにいると気付かずに部屋に入ってしまったことはある。すぐに出ようとしたのだが、つい目が行ってしまい、ベッドの上に投げ出してあったの可愛らしい下着を見てしまったことがある。誰にも話していない、自分だけの秘密だ。

だが、それだけだ。花形の言うような朝のハプニングもありえない。なぜなら健司は中学生の頃はほぼ毎日朝練、より早く起きて早く出て行く。中学の頃は勉強も頑張っていたので、テスト期間になった途端に寝坊ということもなかった。というか起こしに来るとすれば、それはの母親だ。

しかし今のところこうして突っつかれるのはのことが主で、自分の父親がこの高校で大きな顔をして威張っている存在だということはあまり触れてこない。実際のところ健司も小遣いが無限というわけではない。むしろ部内平均より少なかった。それを感じ取ってくれたか、のことだけで済むのは助かっている。

「えっ、じゃあが誰か別の男と付き合ってても平気なん?」
……当たり前だろ」

本当に平気なのか? という顔でそんなことを永野が聞いてきた。健司は呆れた顔を保ちつつ、みぞおちのあたりが軋むのを感じていた。が誰と付き合ってても平気、それは嘘だ。

正確に言うと、相手が男である自分から見てクソ野郎だったら、平気じゃない。性格も見た目もいいやつと付き合って欲しい、のことを一番大事にしてくれるやつと付き合って欲しい、というのが正直なところだった。そういう意味でなら、には本当は遊んでほしくなかった。付き合うなら男は厳選して欲しい。

けれど、ああでも言わなければあの時は気持ちがおさまらなかった。どうして親の決めた人生を歩かなければならないんだろうという憤りが半分、それを同様に強いられているが可哀想なのが半分だった。

もしがこの先誰かを好きになって、そいつものことが好きで、だけど自分と結婚しなきゃいけないなんて、が可哀想だと思った。だからせめてそれまでの間は遊んでおけよと言うしかなかった。

今のところは誰とも付き合う様子がないし、自分と違って地味に過ごしているらしいけど、それで本当に後悔しないんだろうか、と最近では心配するようにもなっていた。誰かと付き合わないまま時間が過ぎて、結局父親に逆らえなかったら、相手オレになっちゃうじゃないか。

「だったらオレちょっと告ってみようかな」
「却下」

にんまりと笑った高野が言うなり、健司は釘を差した。しまったと思うがもう遅い。

「なんだよやっぱり嫌なんじゃないのか」
「オレの知り合いは全部却下。それで揉めてみろ、後でオレがの親父さんに怒られるんだからな!」

慌てて取り繕った割にはもっともらしい言い訳が出てきた。それに安堵した健司もまた、一瞬「」と言いそうになって息を飲んだ。言葉を話せるようになってからずっと「」と呼んできた。それをと言わなければならないのは、なぜか少しだけイラッとした。自分で提案したくせに、言うのが嫌だった。

あれは「」じゃない、「」なのに――

勉強はそれほど一生懸命やっていないけれど、部活ではエース、見た目も性格も悪くない。そりゃあ、モテる。というか入学式の時点で「かっこよくて家が金持ち」ということがバレている。最初の告白は入学式から2週間後だった。数回しか喋ったことのない女子が、彼女いないなら付き合ってと言ってきた。

可愛い子だった。性格も悪くなさそう。に言った言葉がすぐに蘇ってきた。

こうして言い寄ってくる女の子と3年間遊び、との結婚が避けられなくなっても後悔がないように、好きなだけ満喫しておかないと。そういう理屈なのはわかっていた。だが、告白を受けた健司は即答で断っていた。

気持ちが動かない。理由はそれだけだった。この子とカップルになって、仲良く遊び、時にはベタベタとくっついて抱き合ったりキスしたり――したいと思わなかった。健司にとって、との結婚までの間に満喫しておきたいもの、それはバスケットだった。女の子ではない。

は一応気心の知れた幼馴染だし、嫌いではない。つまり、「女の子」は彼女との結婚では失われないのだ。相手がだというだけで、一生女と引き離されるわけじゃない。だけど、バスケットは違う。ただでさえスポーツ選手は有限の夢だ。今自分はその大事な過渡期にある。

大学でも、もしかしたらさらにその先でも続けられるかもしれないバスケット。だけどこのまま父親が横暴を貫くなら、それに逆らっても、結局バスケットは奪われてしまう。健司にとって今一番大事なことは、バスケットに使う時間を一秒たりとも無駄にしないことだった。

彼女というパートナーを作ると、それだけ無駄な時間を産む。そんな暇はない。

「なにお前また断ったの? もったいねえな」
「めんどくさいんだよ。暇もないし、予選で負けたのがまだ悔しくて」

1年生の2学期の終業式、健司は部室で着替えながら苦々しい顔をした。去る冬の選抜、IH予選に続いてまた翔陽は海南大附属に負けた。そこには健司と同じような1年生スタメンがいて、そいつにどうしても勝てない。自分をスカウトしに来なかった海南大附属、それにどうしても勝てない。

女の子と遊んで楽しかったと思うより、海南に勝ちたかった。海南に勝ち、IHでも勝ち進みたい、優勝したい。

告白してきた女の子に頭を下げて断っていたところを永野に見られていたらしく、話を聞いた花形にそれを突っ込まれたが、もう綺麗事で取り繕わなければ、という意識もなかった。

「別に女はいなくならないんだし、今はいらん」
「おま、それすげえな。欲しいと思ったら女なんかいつでも手に入るってことかよ」
「高野、顔がいいっていうのはそういうことなんだと思うぜ」

そういう風にして健司は告白を断り続けてきた。最近ではのこともあまり見かけなくなり、毎日はバスケットと料理の練習と睡眠くらいでだいたい消費されてしまう。というか料理は始めてみたら面白くなってきて、こっそり趣味にしている。何しろ金持ち、調理器具くらいなら割と簡単に手に入った。

しかしもう明日からは冬休み、部活はあるけど授業はない。大好きなバスケットだけしていられる。

「告白といえば……この間、告られてたらしいな」
「え?」

健司の隣でぼそりと長谷川がつぶやくと、サッと顔が3つ入ってきた。花形と高野と永野の顔を追い払いながら、健司はまた動じないふりをする。あいつ、オレの言った通り、3年間遊ぶのかな――

「相手誰?」
「クラスは?」
それOKしたん?」
……それは知らないけど、C組の青山とかいう」
「ああ、あいつか。テニス部だ」

隣のクラスらしい永野がうんうんと頷いているが、健司はその青山某は知らない。気になっていることを悟られないように意識している健司の上から追い払った顔3つが覗き込んでくる。

「けっこう顔いいよな」
「りりしい感じ」
「性格も悪くなかったはずだ。テニスの方は知らんけど」
「テニスで思い出した。確かF組の一橋とかいうやつもなんかいいとか言ってたような。あいつも確か男テニ」

健司は努めて平静を保ち、「へえ~」とだけ返しておく。仲間たちはなんだか妙にのことが気になるようだが、自分は気にならない。気になっている場合じゃない。

「なあなあ藤真、お前の知り合いがと付き合ってヘマしたらお前が怒られるんだろうけど、知らんやつが知らんところで何かしてるのはいいのか? お前が同じ学校にいながら、とかそういうことにはならんの?」

見上げると花形と高野と永野の3人が顔を並べてうんうんと頷き合っている。事情はそんな簡単なことではないのだが、まあ実際のところ、はそんなヘマをするタイプではないだろうし、自分のついた嘘の余波だ。

「そりゃそうだろ。いくらの父親でもそこは言いがかりの域だし、誰と付き合ってても知らなければ仕方ない」
「そういう話、しないの?」
「しないね」
「それにしては面白くなさそうな顔してっから」
……仲がいいわけでもないのにそんな話いつまでも引っ張るからだ」

3人は「ふーん」と言って話を終わらせると、それぞれのロッカーの前に戻っていった。そして、ため息を付いた健司の肩を、長谷川の手がそっと撫でる。

……何」
……お疲れ」

ひとりだけ方向が違うので、健司はひとりで校門を出る。歩きながら、自分の頬をぐりぐりとこね回していた。自分ではちゃんと取り繕えていると思っていたのに、「面白くなさそうな顔」をしていたなんて。その上長谷川には何か勘付かれているように気がして落ち着かない。

そりゃあ面白くない。青山も一橋も、どんな男か知らないけど、まず翔陽の男子テニス部はあまり強くない。その時点でもう気に入らない。適当に部活やって適当に女の子引っ掛けているような男なんじゃないかという気がしてならなかった。りりしい顔で性格も悪くない? 信じられるか。

の相手にものすごく高い理想を持っていることには自覚がある。そういう相手でなかったらが傷つくと思うからだ。だからその青山と一橋が例え無害な平均的男子だったとしても、自分査定で言えば不合格に違いないと思った。もっとハイスペックじゃなきゃだめだ。

いつか逆らえなくて自分と結婚しなきゃならなくなった時、過去にもっともっといい男との思い出があれば、それがきっとの支えになるはずだ。自分が寸暇を惜しんでバスケットをするように、には「健司なんか足元にも及ばないような男」との日々を望んでいる。

そういう思いを抱えて帰宅すると珍しく修吾がいて、書斎の棚をひっくり返していた。健司が高校生になってからというもの、修吾も母親も、ますます本宅には寄り付かなくなり、仕事に都合のいい都内にマンションを買おうかという相談をしている。

それならこの家を処分すればいい、自分はひとり暮らしでもいいと言ってみた健司だったが、修吾は自分の地元に建つ豪邸を手放す気はないらしい。その上高校生がひとり暮らしなど堕落させるだけだと一笑に付された。

「ああ、お前か。おかえり」
「ただいま。珍しいね、こんな時間に」
「書斎がふたつあるというのも困ったもんだ。欲しいものがどっちにあるかわからなくなる」

だったらさっさと東京にマンション買って、そこに全部移せばいいのに。そう言いたい気持ちを飲み込む。修吾はスーツ姿だし、母親はいないようだし、本当に書類か何かを探しに戻っただけらしい。健司はそのままキッチンへ向かい、帰りがけに買ってきた食材を冷蔵庫にしまう。修吾が出かけてから作りたい。

着替えて戻ると、探しものが終わったらしい修吾がキッチンで水を飲んでいた。

「見つかったの?」
「健司、お前料理が好きなのか?」
「え? ああまあ、意外と面白いところもあるよ。自分で栄養管理もできるから役に立つし」

最近はお菓子作りも面白くなってきたなどとは言えない。健司は必要だからやっている、まあまあ面白いというニュアンスを込めたつもりだった。だが、修吾はコップをシンクの中に置くとため息を付いた。

とはちゃんとやってるんだろうな」
「ちゃんとって……どういう意味」
「婚約してるんだぞ。最近は皆人の家にあまり行ってないらしいじゃないか」
「それはほら、部活で時間が不安定だし、疲れてるからつい」

そんなことは中学の時から同じなのだが、修吾は健司の部活事情など知らない。しかし健司の言い訳など彼には意味がないようだった。彼の求めている答えではない以上、何を言ってもそれは通り過ぎていく。

「今お前がやるべきことは何だ? 料理? 部活?」
「やるべきことって……何だよ」
「高校生なんだからそれくらい自分で考えろ。大学受験はそんなに甘くないぞ。浪人なんか許さないからな」

修吾は書類を持った手で健司を指差すと、スタスタとその場を後にし、立ち止まりもせずに出て行った。

健司はキッチンに背を預けて天井を見上げ、目を閉じた。鼻からたっぷり息を吸い込み、一瞬止めて全て吐き出す。頭の中が燃え盛る炎と真っ黒な夜の海のうねりで埋め尽くされている。腹が立つ、悔しい、悲しい、全部混ざっている。そんなことを親に感じなければならない自分の運命が憎らしい。

大声で喚き散らしたい。何かを壊して投げつけて、暴れたかった。

しかしそんな風に荒れたところで、何か好転するんだろうか。婚約が破棄になり、バスケットで大学に進学できて、将来もそれに合わせて考えられるようになるんだろうか。どう考えてもならない。

もし健司が親に反発してグレたとしよう。犯罪を犯さない限り修吾は放置するだろう。そしておそらくは母親のせいにして自分は我関せず、最悪の母親に押し付けるかもしれない。自分から息子に向き合おうとするとは、到底思えなかった。彼にとって健司という息子はその程度の存在だった。

健司は何度も深呼吸を繰り返し、窓を開け放って新鮮な空気を入れ、それが終わったらダイニングのオーディオから大音量で音楽を流した。冷蔵庫を開け、買ってきた食材を取り出す。今日は12月24日、クリスマス・イヴだ。去年まではと一緒に過ごしていたクリスマス、健司は食材を見下ろして、涙を零した。

クリスマスにひとりでいることが寂しいんじゃない。ひとりは問題じゃなかった。時間はそれほどないから、チキンをたくさん焼いて、ケーキの代わりにパンケーキも焼こうと思っていた。明日も朝練で早いから、ひとりで好みのクリスマス・ディナーをたらふく食って、さっさと寝ようと思っていた。

それなのに、自分の16年の人生の中で、両親と3人だけで過ごしたクリスマスという記憶がないことに気付いてしまった。毎年クリスマスはと一緒だった。クリスマスプレゼントは何でも欲しいものを買ってもらえたけど、24日も25日も、自分と一緒にいてくれたのはだった。

7歳のクリスマスはこっそり起きていて、ふたりで毛布にくるまり、ベランダをずっと見ていた。サンタクロースが来るかもしれないと思ったからだ。本人によればは既にサンタクロースはいないという結論に至っていたらしいが、眠気で船を漕ぎながら健司の「サンタに会いたい」に付き合ってくれた。

そんなことを思い出して泣いている自分が情けなくて、健司は勢いよく涙を拭う。

生まれて初めて、に会いたいと思った。