至上のヴィア・クルキス

1

海南大学の場合、附属高校の創立は大学の創立から20年ほど後の話で、どちらも二度の大戦前まで遡るほどには古くない。そもそも海南大は学生運動が全国で盛り上がっていた頃もその波に乗り切れずにのんびりしていたという校風で、そうした穏やかな気質は附属高校にも受け継がれていた。

しかし、附属高校はやがてクラブ活動に熱心な学校へと変容していく。なぜなら、内部進学率が高かったからだ。定期考査の成績や出席日数さえ守っていれば、受験の心配をすることなく3年生の3学期までクラブ活動をしていても問題ない。それが高じて海南大附属はいくつもの「強い部」を抱えるに至る。

それでも運動部が県大会でベスト8に入ったと喜んでいるようなうちはまだよかった。生徒たちは青春を謳歌し、たっぷりとクラブ活動に勤しんでからゆったりと進学していく。そしてまた穏やかな校風の大学で学んだのち、社会に出ていった。

ところが、それが全国大会に手をかけるようになると、校内の事情は一変した。

穏やかでのんびりした海南大附属は男子バスケットボール部がインターハイに初出場した年から豹変、「スポーツ強豪校」を謳い始めた。まだその頃は1回戦2回戦で沈んでいた男子バスケットボール部だったけれど、県内では確実に強豪校として成長、県予選ではほぼ負けなしになっていた。

そして主将を務めた選手はスカウトで大学進学、さらに躍進する。日本代表の強化選手に選出されたのもひとりやふたりではない。ますます附属高校はクラブ活動に注力していく。

だが、そんな中でも海南大附属が長閑な校風だったころから何も変わらずに残っているものがある。

生徒会だ。

海南大附属の場合、生徒会は「学校生活における生徒による自治」を基本とした組織と定義されていて、教職員を始めとする「学校側」とは干渉し合わない前提があり、例えば風紀委員などは生徒が生徒の意志として風紀が乱れることのないよう取り締まる目的で活動しているので、あくまでも生徒主体で執行されるものであり、「学校側」の意志は反映されない。

なので、例えば80年代に学校側が校則に「染髪・パーマ禁止」と書き加えたが、当時の生徒会が「染髪は問題だがパーマは問題なし」と判断してパーマが取締対象にはならなかった例もある。

こうした自治のために独立した生徒会というものの歴史が長く、そもそも「権限」はほとんどない組織ではあるが、海南大附属の生徒会というものは、全生徒を傘下に置く生徒組織としてその役割を担ってきた。なので附属高校に入学した時点で生徒会の会員ということになる。

さらにいわゆる校内暴力が流行した80年代にこの生徒会という組織はその構造が変わり、会長をトップに執行役員が「高校生活を守る」という名目で生徒を管理する「全生徒の上位組織」になった。

最初は反発をもって迎えられたこの生徒会だったけれど、当時の執行部は真剣に「生徒を守る」ことを目的としていて、一身上の都合でグレかけた生徒が教師に押さえつけられたりしているのを見つけると割って入り、生徒を庇うようになった。

そのため生徒たちの手のひらはコロッとひっくり返り、以来附属高校の生徒会は「全生徒の代表」であり、学校生活をその管理下に置く「自治組織」として今日に至るまで君臨し続けている。

さてその生徒会であるが、現在も全生徒の最上位であることには変わりがない。一番上にあるのが「生徒会執行部」。その次に置かれているのが「生徒会監査部」。さらにその下に委員会と各クラブと同好会管理部がぶら下がる、ということになっている。

そういうわけで、どれだけ運動部が好成績を残したとしても、ひとつひとつの部は生徒会監査部の下に置かれた「いち部署」に過ぎないという前提が覆ることはなかった。いくら学校側がスポーツ強豪校を売りにしても、その上には必ず監査部があって、さらにその上には執行部がある。そんな状態だった。

しかも執行部は選挙制ではなく、1年2年時に監査部を努めた生徒の中から現執行部が選んで就任させるという選ばれし者のみの集団になっていた。ゆえに執行部は全員3年生。

これを疑問に感じる向きは少なくないわけだが、かといって実際に執行部が何か横暴なことをするかというと、長い歴史の中でもそれは一度たりともなく、常に執行部は生徒たちの安全で安定した高校生活のためにのみ働くため、このシステムが変わることもなかった。

なぜかと言えば、この執行部や監査部で何をどう活動しても、内部進学の生徒たちにとっては良くも悪くも無意味だからである。執行部でどれだけ頑張っても進学には何の影響もない。例え外部進学だったとしても、執行部や監査部に所属していたと書き記されるだけ。なので完全なる名誉職。

ではなぜ近年になってもそんなボランティアみたいな活動に積極的に参加する生徒がいるのかといえば、海南大附属が多くの「強い運動部」を抱える高校だから、というところに戻る。その強い運動部の筆頭である男子バスケットボール部など、もはや初心者どころか長年の経験者でも着いて行かれなくて退部してしまうようなレベルなので、勢い各部は入部する段階で既にハイレベルな経験者である必要が出てくる。そうすると、本来であれば誰でも参加できるはずのクラブ活動は特殊な生徒だけのものになってしまう。

というわけで、特殊な能力も経験も必要がない監査部は毎年一定数の新人が入ってくる。執行部は選ばれし3年生のみの集団だが、監査部はそれもなし。人数がどれだけいても大丈夫。暇な時は執行部の隣にある監査部の部屋で喋っていても問題なし。ここは結構楽しいのである。

さらに、監査部は執行部に選ばれなかった3年生が取りまとめており、それはそれで責任ある立場なので、要は執行部と監査部、ふたつまとめて「生徒会」というクラブ活動をしているようなものだった。

ただその組織には、「序列」がある、というだけで。

二学期の期末テストも終わり、テスト休みに突入して冷え冷えとした校舎を足早に駆け抜けていたのは2年生の。つい先日来年度の監査部リーダーである「査長」を任命されたばかり。

査長というのは附属高校の生徒会でのみ用いられる略称で、元は監査部長。ただの部長でいいようなものだが、一応各クラブは監査部の下に置かれているので、そことの差別化を図りたかったらしい数十年前の執行部が短縮して「査長」という名前にしてしまった。

毎年文化祭の終了とともに翌年の執行部と査長の任命が行われるのだが、実はこの査長に選ばれるのも執行部に選ばれるのも、名誉のほどは同じ。なぜかといえば、どんなに少なくても5人以上で構成される執行部と違って、査長は常にひとり。副査長はおらず、3学年の監査部員をひとりで任せられる人物でなければならない。さらに翌年からは同じ監査部員だった新・執行部を立てて序列を守り、その「下」についても構わないという精神力が求められるからだ。

つまり査長は、執行部に選ばれなかったという看板と、監査部という執行部より大きな集団をひとりで背負わなければならない。査長は査長でそれなりに「選ばれるのはすごいこと」なのである。

でも生徒会は何の得もないボランティア。はひと気がなくて冷えるばかりの廊下を駆け抜け、生徒会本部に飛び込んだ。本部は執行部室と監査部室の2部屋あり、どちらも冷暖房完備、監査部室にはテレビと冷蔵庫もある憩いの場でもあるが、さすがにテスト休み、誰もいない。

はドアをぴったりと閉め、急いでエアコンをつける。窓を開けて同時に換気もしつつ、まずは室内の掃除をする。フロアワイパーで床をひと回り、次にふたつくっつけた長机を拭き掃除、最後にハンディモップで棚や窓の桟を撫でれば完了。

「よーし、OK!」

小声でそう呟いたは、窓を閉めると一番奥の椅子にストンと腰を下ろす。デスクの上のタブレットからケーブルを外して自分の携帯に挿し、バッグの中からペットボトルを出して完了。

の前には「査長」と書かれたネームプレートが置かれている。

だがはそのままタブレットで海外ドラマを見始め、携帯で友達とやり取りをし、1時間ほどすると今度は本部に置きっぱなしの漫画を読み始めた。するとそこへノックの音がしたので、は漫画を机の上に伏せて返事をした。

「どうぞー」
「おはよー……あ、よかったー来てた~」
「私しか来ないよ、テスト休みだもん」
「えっ、監査部それはどうなの……

は来客に椅子を勧め、そしてデスクの上に置いてあるレターケースから紙を1枚引き出して差し出した。来客の女子はそれを受け取るとペン立てからボールペンを取り、さらさらと書き込んでいく。

「どしたー?」
「同好会の申請」
「おお、何始めるの?」
……古生物」
「古生物って、恐竜とかああいうのでいいんだっけ?」
「そう。なんとか5人集まったから」

女子生徒はちょっと恥ずかしそうだったが、はまた別の紙を取り出して机の上に並べる。

「えっと、同好会の決まりとかは……
「一応読んだんだけど、つまり、予算と部室と顧問なし、でいいのかな」
「OK。でも会員ひとりあたり年間1万円以上の経費がかかるとアウトだから気を付けてね」
「活動として博物館とか行きたいんだけど、そういうのってどうなの?」
「経費にあたるのは交通費と、博物館なら入場料までだから、それでやりくりしてもらえれば」
「じゃあ例えば泊まりで遠くの博物館に行くとしたら……
「あー、同好会は宿泊できないんだ、ごめん。それは活動外でお願い」

手を合わせるに女子生徒は頷いて用紙に記入を続ける。

……笑わないんだね」
「え。なんか笑うところあった?」
「いや、恐竜とか子供じゃあるまいし、とか、女が恐竜かよとか……
「そう言われてきたの?」

記入を終えた女子生徒はこっくりと頷いてペンを置いた。は用紙を回収すると「本日申請分」と書かれたトレイに置き、ホチキスで綴じられた薄い冊子を手渡す。表紙には「同好会のルール」と書かれている。

「別に何もおかしなことは……。てか監査部からすると、男バスも同好会も、同じなんだよね」
「それは言い過ぎじゃない……?」
「ううん、同じ。執行部、監査部、以下全委員会全クラブ全同好会。それだけ」
「それ本気だったんだ」
「本気も何も、昔から海南の生徒会ってそういうものって決まってて」

だからは区別差別しないのである。そしてその伝統の精神を守れる人物だと判断されたので、査長に任命されたのである。特に査長は生徒に対して臨機応変かつ平等に接せられる人物が求められる。

「受理されるのはたぶん明後日になると思うから、もうちょっと待ってね」
「わかった」
「以上、古生物同好会会長さん、活動楽しんでね!」

そう言ってパチパチと手を叩いたに、女子生徒は照れくさそうにはにかんだ。そして立ち上がると、またもじもじと手を揉み合わせ、に向き合う。

「ありがとう、
「えっ、ええと、どういたしまして?」

女子生徒はきょとんとしているに返事をせず、荷物を取り上げるとそのまま本部を出ていった。

こうしてこの日は海南大附属に新たな「古生物同好会」が誕生した。同好会は5人以上の会員を集め、会長にあたるリーダーを決めれば申請することが出来るし、それが余程問題になりそうなものでなければ、大抵の申請は通る。その活動が部に昇華するかどうかは活動次第。

……という生徒生活の管理を担っているのも生徒会である。

さらに、こうした「各種申請の受付」を請け負っているのも生徒会であり、その窓口は監査部の仕事だ。というか実際のところ、執行部はこうして「接客」をすることはない。執行部は監査部の上位組織なので、査長が集めた申請に目を通して可否を決めたり、学校側との繋ぎになったりと、その名の通り何かを「執行」するのが役目だ。

つまり、その範疇に含まれない雑務全てをこなすのが監査部、とも言える。そしてそれを責任を持って行わなければならないのが、査長。なのではテスト休みだと言うのに登校してきて本部に待機しているというわけだ。監査部は基本日曜休みで、それ以外の日は必ず窓口を開いている。

もちろんがその週6の窓口を全て担当しているわけではない。だが、担当できる監査部員がいなければ査長が責任を持ってやらねばならない。だから同好会の申請に来た女子生徒は「監査部それはどうなの」と渋い顔をしたわけだ。3年生が引退済みの監査部は現在2学年で13人、査長に丸投げ。

現在の監査部の決まりでは、授業がない時の窓口は10時から14時となっていて、例外はなし。授業がある時は基本的には放課後。朝や昼休みは「担当者不在」のプレートが下がっていなければ開いている。そこは割とアバウトだ。

だが、ものは考えようで、監査部室は隣の執行部室と合わせてインターネット回線使い放題、冷蔵庫と湯沸かしポットがあり、冷暖房も完備、来客が来なければひとりでこれを使いたい放題である。数年前まで執行部にしかなかったパソコンに加え、監査部にもタブレットが導入されたのでVODもOK。

今日はたまたま新しい同好会などという珍しい申請があったけれど、普段はほとんど来客もない。テスト休みなのに学校行くのダルい、行きたくない、は至極普通の感情だろうし、そもそもは自転車通学、電車で1時間かけて登校してくる仲間たちよりは気楽だ。

いつもより寝坊してのんびり家を出て、誰も来ない本部でぼーっと4時間、合間にお昼を食べて帰れば任務完了! 特にテスト休みに入って数日はみんな休みたいのでこれは査長になって最初の洗礼のようなものでもある。これをサボるような人物であれば、そもそも査長に任命されない。

は同好会の申請の書類を改めると、また伏せておいた漫画本を手に取って椅子に深く寄りかかる。窓口担当の椅子はゆったりとしたデスクチェアなのでこれも居心地がいい。

するとまたノックの音がした。こんな続けて来客とは珍しい。は素早く姿勢を正す。

「どうぞー」
「おはよう」
「おお、どうしたの」
「部長の交代。今大丈夫?」
「あ、そっか! 大丈夫大丈夫、誰もいないから」

本部のドアの隙間、ずいぶん高いところから顔が覗く。に招かれるとやたらと背の高い生徒が入ってきて、先程古生物同好会の会長が座っていた椅子に腰掛けた。彼はと同学年の神宗一郎と言って、この附属高校で1番実績のある「強い部」である男子バスケットボール部の部員だ。とは1年生の時に隣のクラス、選択授業が同じだった縁で面識はある。

だが、二学期のテスト休みということは男子バスケットボール部は世代交代の時期である。は机の引き出しからまた紙を引っ張り出して神に差し出した。各クラブは3年生の引退などで部長副部長が交代した際には監査部に届け出をしなければならないことになっている。

「そっか、神、とうとう主将か」
「まだ自分でもあんまり実感ないけどね」
「今年も去年も迫力系だったしね、部長さん」

神は書類に細かい字で記入していきながらの言葉にぼそぼそと応えている。の言うように、本年度も前年度も男子バスケットボール部の主将である部長はどちらも大人びて妙な迫力があり、一見して近寄りがたい人物だった。だが、神はそれとはちょっと異なる。

背は高いけれど顔が小さいので細身に見えるし、色白でぱっちりとした目、長い睫毛に温和な物腰、という一見して王子様タイプ。そんな女子生徒に騒がれそうな人物の割に寡黙で表情に乏しいタイプなので、これまでの主将たちとは違う意味で近寄りがたくはあるのだが……

「大変な、役目だよね。うちのバスケ部の主将って」
……そうだね」

視線を外したの声に、神も顔を上げて壁を凝視した。附属高校の中で最も強い男子バスケットボール部、それは今年でいえば全国大会で2度も準優勝だった実績を持つ。日本で2番目に強いチームだ。彼らがついに優勝に届かなかったのはほんの2週間ほど前のことである。

つまり、今日から主将で部長になる神の肩には「次は優勝」という無言の圧力がかかり始める。

はそれがわかるので、何か労うような言葉をと思うのだが、考えつかない。

「でも、それは6番をもらった時には覚悟、したことだから」
「6番?」
「背番号。バスケって4番から始まるから、6番てことは、3番目」

は神の横顔を見つめながら何度も頷いた。部内の実力が序列に直結するということであれば、4番は主将で部長、5番は副主将で副部長、神はその次に位置していたということなのだろう。

「じゃあ今日から神が4番なんだね」
「そう。さっき先輩たちの引退式の後にクラウンもらった」
「えっ、あの主将しかもらえないっていう伝説のクラウンワッペン」
「見る?」
「見る見る見る」

神が少しいたずらっぽい目をするので、はまた何度も頷いて立ち上がった。附属高校の男子バスケットボール部には主将に就任した者のみが付けることを許されるワッペンがあり、それは校章に王冠をあしらったデザインとなっていて、通常であればジャージの胸元に貼り付ける。

「前の主将はそういうの苦手だって言って、ロッカーに貼り付けてたんだよな」

神はそう言いながらバッグの中からワッペンを取り出してに手渡した。

「ふおお、すごい、本物だ!」
「監督の机の足元のダンボールにいくつも詰まってる代物なんだけどね」
「神はジャージにつけるの?」
「迷ってる。昔はもらってすぐに女子に付けてもらって校内を歩くのが夢だったらしいけど……

古くは男子バスケットボール部の主将イコール生徒ヒエラルキーの頂点というイメージがあった附属高校だが、最近では生徒間の優劣を理由にした振る舞いに対しては、度が過ぎると執行部から解任要求が出る。10年ほど前にとある部内でパワハラが横行して自殺未遂が起こってしまって以来の習慣だ。

「確かに、これをつけてなくても神は主将だし、それを疑う人もいないもんね」
……そうだといいんだけど」
「自信、ない?」
「ちょっと説明しづらい」

神がしょげているように見えてしまったは、ワッペンを返しながら問いかけてみたけれど、彼の顔には困ったような苦笑いが浮かんだだけだった。

「大きな役目だから、戸惑うのは当たり前だと思うよ」
「それもちょっとかっこ悪くない?」
「そうかな。神は神、前の部長さんたちとは違うんだから、自分らしくやるのが一番いいんじゃないの」

傍らでそう言うに、神は顔を上げて少し微笑んだ。笑うと少し幼い表情になる。

「そっか。牧さんの真似してもしょうがないもんな」
「そうだよ。ここだけの話、前の部長さん怖くていつもビビってたよ私」
「あはは、厳しくて顔が怖いだけで、穏やかな人なんだけどね」
「でも神は大丈夫だよ。誰でも安心して着いていけると思う」

神はゆったりとした笑顔で椅子から立ち上がると、書類をに手渡してバッグを取り上げた。立ち上がるとが見上げるような身長になってしまう。つい仰け反るに、神は目を細めてにっこりと笑った。

「ありがとう、

そして踵を返し、監査本部を出ていった。