「いよっす牧、お疲れ」
「さん、お疲れっした。1年間でしたけど、ありがとうございました」
海南大学附属高等学校男子バスケットボール部にて最終的な引退式が行われるのは、毎年年末のことである。冬の選抜を終えて初めて全3年生が引退となる。牧に声をかけたという3年生も今日引退した。海南大に内部進学するため、引退などしなくてもいいようなものだが、1、2年が新体制に慣れる必要もある。
声をかけられた牧は入学した直後から類稀な能力でチームの躍進力になった、いわば海南の看板プレイヤーである。1年生ながら全国にもその名を知られ、高校に入学したばかりだというのに大学からスカウトが来るほどだ。一方、引退したばかりのは試合経験がほとんどない控えの控えといったような選手だった。
だが、このは温厚な人柄でちょっとおっちょこちょいの愛されキャラだった。能力的には後輩にも遠く及ばないだったが、牧はこの先輩をとても慕っていた。バスケットに関係なく、信頼のおける相手だったのだ。
「あのさ牧、ちょっといい?」
「はい、なんですか」
部室の前で行き会った牧の背を押して、はランドリー室の方へと誘った。18時を回ったクラブ棟は薄暗くてしんと静まり返っている。ランドリー室はもう閉まっているが、エントランスから遠いので人が通りかかる心配はない。これが牧でなかったら告白を疑うようなシチュエーションだ。
「こんなこと言っていいものか悩んだんだけど、お前にしか頼めなくて」
「何ですか、オレに出来ることだったらなんでも言ってください」
「ってお前がそう言うってわかってるんだよ、オレもほんと汚いな」
「何言ってんすか。そんなこと気にしないでくださいよ」
来春から海南大に進学し、高校と違ってあまり強くないバスケット部に入ることが決まっているはがっくりと頭を落としている。牧の方は1年間とはいえ世話になった先輩の言葉なので素直に聞こうとしているのだが、は言い辛そうにしている。
「……のことなんだけど」
「に何かあったんですか?」
は、といい、の従妹にあたる1年生だ。現在バスケット部のマネージャーをしている。
「いや、何かあったわけじゃないんだけど、オレ、いなくなっちゃうだろ」
ゆっくりと頭を上げたは、苦笑いをしつつも真剣な顔をしていて、牧は小さく頷いた。
「だから、牧、あいつのこと、頼む」
「あの、さん、はマネージャーとしては充分……」
「そう、それは心配してない。だけど後悔してるんだ、マネージャーなんかやらせなきゃよかった」
「さん?」
は従兄の誘いに応じて何の迷いもなくバスケット部のマネージャーになった。
本来なら海南バスケット部のマネージャーというものは、厳しい審査を経て、インターハイ県予選が終わった頃になってようやく正式に認められる。だが、という信頼の置ける部員の薦めであり身内ということもあって、は最初からほぼ正式採用としてマネージャーになった。
マネージャーとして最低限必要とされるのは、バスケットのルールを熟知していることだが、実際には多岐にわたるマネージャーの役割に対して真面目に取り組めることが最大の難関になってくる。マネージャーを希望して入部してくる1年生女子は多いが、基本的に動機は不純なのである。
しかし、動機が不純でもまったく問題はない。ただし、インターハイ県予選が終わる頃までにルールを完全に覚え、文句ひとつ言わずキビキビ働くことが出来なければマネージャーとしては認められないというわけだ。そのため脱落者も多く、試用期間という名の「逃げてもいい期間」が設けられている。
はバスケット小僧だった従兄にくっついて試合を見たり練習に付き合ったりしてきたので、バスケット部経験こそないものの、知識はまったく問題なかった。マネージャーとしての仕事についても、家の特性なのか、真面目に黙々と取り組む。そもそも動機がないのでそこはとても重宝されるはずだった。
しかし、長年の習慣で、マネージャーというものは女バス経験があるか動機が不純な女子と相場が決まっていて、なおかつ気が強く競争意識も上昇志向も高く、つまりのように地味めな女子ではないのが普通だ。
「今年は3年のマネージャーが全員女バス経験者だったから、まだよかったけど……おそらく来年はマネージャーの中で孤立するんじゃないかと思うんだ。しかもお前たちの代はひとりだ」
ちらりと牧の顔を見上げたは、いつもの温厚で優しい表情ではなかった。
「思い過ごしならそれでいいんだ。だけど、オレも3年間海南のマネージャーを見てきた。のような女の子が入ってきたことはなかったし、よりがつがつした子でも辞めていった。部員の方にも積極的に押してくる女子という刷り込みがあるだろ」
の心配はわからないでもないのだが、牧はなんとなく腑に落ちない。
「マネージャーがどんな子でもオレたちは何も……」
「それはお前だからだよ」
首を傾げた牧に、は眉を下げて笑った。
「それに、部員の中ではお前が一番と仲がいい」
「い、いやそのさんオレはとは何も」
「わかってるって。まあそれでも構やしないんだけど、とにかくお前にしかのことを頼めない」
牧を真正面から見上げたは、普段の女の子のような優しい笑顔と物腰が消え失せ、怖い顔をしていた。
「お前は海南の中心だ。核みたいなものだ。だから、何もを助けてやってくれとは言わないし、何をして欲しいとかそういうことじゃない。だけど、出来れば目を離さないでくれないか」
牧は返す言葉がない。そんな風に後輩に怖い顔をするようなことか?
「真ん中にいるお前には見えづらいかもしれない、だけど一番遠い輪の外側も見ていて欲しい」
「さん、そんな心配はないと思うんですが」
「だから、思い過ごしならそれでいいんだ。こんなことお前に頼むのは申し訳ないんだけど」
「いえそれは構わないんですけど、が、孤立、ですか」
同学年の牧にはが女子マネージャーの中で孤立するという状況そのものが理解できない。1学年上のマネージャーふたりは確かに女バス経験のない「不純な動機」タイプなのだが、牧には仲良くやっているようにしか見えない。も辛そうにしていることはなく、部活を離れてもそれは変わらない気がする。
「牧、環境が変わると、人の在り様は白から黒へでも平気で変わるんだ」
「どういう……」
「笑顔の絶えない優しい人が、次の日には突然悪魔に変わることもあるってことだよ」
それは今のではないのかと牧は思った。同様、真面目に黙々と文句ひとつ言わずに3年間海南バスケット部を耐え抜いたの笑顔は「天使」との呼び声が高いほどなのに、今はその影もない。本人が言うように、まるで悪魔のようだった。
「いずれキャプテンになるお前に言っていいことじゃないのはわかってる。けど、頼む」
は1年生の牧より小さい体をふたつに折って頭を下げた。
「ちょ、さんやめて下さい、わかりましたから!」
「お前なら断らないって、わかってて言ってるんだ。本当にごめん」
天使の笑顔が薄暗いクラブ棟の影の中で悪魔の微笑みのように見えた。牧はその不気味な笑顔に怯み、何も言い返せなかった。ただ何度か頷いて、そうして去っていくの姿を目で追いもせず、ランドリー室の前でじっと立ち尽くしていた。
年明けと共にバスケット部は新体制に移行する。主将と副主将が新たに決まり、数ヵ月後に新入生が入部してくるまでは2学年体制である。練習の内容はともかく、1年の中でも一番雰囲気が穏やかな時期だ。しかし、天候の悪化などで練習が潰れがちな時期でもある。
「やっぱりだめだって。さっさと終わらせて帰れって言ってる」
「まあしょうがないか、監督が家から出られないんじゃな……」
新体制に移行して1ヶ月、関東全域で十数年ぶりの大雪が降った。比較的積雪量が少ないという神奈川沿岸地域ですら午前中に12センチという、雪に弱い関東平野を完全に麻痺させるドカ雪だった。何しろ厳しいことで知られる海南バスケット部、部員たちは朝練のために登校してきたが、学校側は閉鎖するつもりだったらしい。
体育館の鍵を取りに行った2年のマネージャーとは、近所に住んでいるという教師に「バスケ部はバカか」と笑われ叱られて帰ってきた。もちろん体育館の鍵は渡してもらえなかった。エアコンをつけていても寒々しい部室に戻ったは、牧に報告するとくしゃみをした。頬が寒さでピンクになっている。
そろそろ12時になろうかというところだが、2年生はテレビの前にかじりついて気象ニュースを見ている。それによれば、未だ止む気配のない雪は日付が変わる頃にようやく落ち着く見通しだという。まだまだ積もる。
「今より積もるってことでしょ、監督、明日も来られないんじゃないのかな」
「あんな山の中に家なんか買うからだ」
山坂が多い神奈川県であるが、海南の監督である高頭も急な坂の途中に住んでいる。今朝は車を出そうとして横滑りしてしまい、ガレージの角にぶつけてドアをへこませ、サイドミラーを破壊してしまったそうだ。ちゃんとチェーンをはかせたのにと本人は苛々しながら新キャプテンに電話してきた。もう歩くしか方法がないらしい。
そんな話をしていると、と牧の間から武藤が顔を出した。
「監督、歩いてくるのは諦めたのか」
「スキー板でもあればよかったのにね」
「ダンボールで滑り降りてくりゃいいんだよ」
「サーフボードってスノボみたいには使えないか?」
なんとなくふんぎりがつかなくてぼんやりしていた部員たちは、完全に学校を閉鎖すると決めたものの、バスケ部のバカが気になってクラブ棟にやってきた教師に怒鳴り込まれた。とりあえず海南の最寄り駅の沿線は全線ストップ、除雪はしているが動く予定はないという。
「電車のやつはどうするつもりなんだよ。歩いて帰るってのか!」
先生の言うことはごもっともである。どうしても帰る手段がない部員は仕方ないので、歩いて帰れる部員宅に泊めてもらうことになった。家もこのあたりでは古い家で、の家はともかく、ほぼ本家に当たる引退したの家はだだっ広い。最悪それを使うしかないような状況だった。
「さんとこかー。帰れるけど行きたいな。急にさんの顔がなくなると寂しいよな」
と牧の間で武藤が腕組みをしてしょんぼりしている。
「連絡してあげたいんだけど……」
「いないのか?」
「ええとその、彼女が」
雪がどうこう以前に自由登校の3年生であり、なおかつ内部進学なのでとその彼女は一足早く春休み気分なのだという。昨晩は泊まると言っていたそうなので、起きてこの雪ならまだいるに違いないとは踏んだ。
「まーなんだ、さん天使だからな、モテるわな」
「3年間、ほとんどひとりの時がなかったからね」
「バスケ部で3年間彼女切れなかったって、奇跡みたいなもんだよな」
天使の笑顔のは細面のきれいな顔をしている。その上バスケットで鍛えられた体を持っていて、穏やかでちょっとおっちょこちょいという、わりとふざけた人物である。当然モテるので3年間で4人の彼女を渡り歩き、現在5人目という猛者でもある。
「しゃーない、牧、帰るか。も帰るだろ」
「うん、お疲れー」
「、お前も気を付けて帰れよ。雪に嵌ったらちゃんと誰か呼ぶんだぞ」
マネージャー用のロッカーは部員用とは別に用意されているので、はひとりでその場を離れる。部員用のロッカーに向かった牧に、武藤がぼそりと言う。
「海南に入った以上は覚悟の上だったけど、彼女欲しいよな~」
「さんみたいなのはたぶん20年にひとりくらいしかいないだろうな」
「お前はモテそうなのにな」
「そんなこともないけど、だとしてもそんな暇ないしな」
「もったいねーな」
苦笑いの牧だったが、武藤はクラブ棟から雪の中へ出て行くまでもったいないを連呼していた。