未完の恋物語

1

…………えっ、誰これ」
「誰って、お父さん」
「お父さんて」
「そこで孫サンドになってるおじいちゃん」

とある土曜の朝、清田家のリビングにとエンジュの悲鳴がこだました。ふたりの手には古めかしいアルバム。中にはフィルム時代の写真が何枚も収められている。

それをめくっていたとエンジュが中程から登場する青年は誰なのかと由香里に聞いたところ、新九郎であると返ってきた。信長たち息子には知れたことだろうが、とエンジュは初めて見る代物だった。本人は目の前にいるが、悲鳴の出るビフォア・アフターであった。

そう、若かりし頃の新九郎は結構なイケメンであった。信長と頼朝を足して2で割った感じ。

「ちょ、嘘だろ、なんかすごい好みなんだけど」
「いやほんとエンジュこれどストライクじゃない」
「てかなんかちょっと沢嶋さんにも似てる」
「ああ、だからゆかりん沢嶋さん好きなのか」
「一緒にしないでくれる」

由香里が確認したところ、おそらく19歳頃なのではないか、というその写真に写る新九郎は現在と違ってすらりとしていながら、上半身にしっかりと筋肉のついた、いわゆる細マッチョ。そして少し長めの前髪に隠れた顔はくっきりとした目と眉の、少々濃い目のナイスガイであった。

そのナイスガイは現在自分の指定席に深々と腰掛け、両腕にアマナと寿里を抱っこしてご満悦である。

そして由香里は否定するが、濃い黒髪に鋭い眼差しなどは確かに沢嶋サムライに似ている。そりゃあ「お父さんに似てるから沢嶋選手が好きなの」とは言いづらいに違いない。たぶん。もしかしたら無自覚かもしれない。

「そっか……みこっさんはあんまり似てないけど、信長と頼朝さんはじいじ似だったんだね」
「そうねえ。頼朝は小さい頃私に似てるってよく言われたけど、この頃のお父さんにも似てるわね」

言いながらエンジュがページをめくると、海でのショットが出てきた。また悲鳴。シックスパックだ。

「やば、なにこのイケメン、ほんとにじいじ?」
「すごい筋肉……信長こんなになかったよね」
「だってその頃は既に仕事してたもの。筋肉くらいつくわよ」

それから数十年、現在でも新九郎はガチムチな筋肉親父である。主に腹回りに脂肪は増えたが、今でも清田家では一番身長が高く体重も多く、息子たちの誰一人として腕相撲で勝てない。

「これはゆかりん惚れるよねえ」
「あら、逆よ逆。私の方が追いかけ回されたの」
「えっ、ちょっと待って、じゃあこのリボンの女の子ってもしかして」

今度はがページをめくって震えた声を出した。

「だからそれが私」
「激マブ!!!」

ヤング新九郎もだいぶ衝撃的だったが、ヤング由香里もかなりの美女であった。時代が時代なので、髪型や服装はモッサリして見えるが、こちらもくっきりとした目と眉の濃いめ美人。新九郎と並ぶとかなり小柄に見えて、まさにトランジスタグラマーといった雰囲気。

「これは追いかけ回すわ……ゆかりん超かわいいね……
「でもこれじゃどっちもモテたんじゃないの。揉めたりしなかった?」
「知り合った時はもうお互い働いてたもん。学生みたいなノリじゃないわよ」

新九郎と由香里が結婚したのは、それぞれ22歳と20歳の時である。それはよく聞くのだが、ふたりの馴れ初めだの、結婚に至るまでのエピソードだのは聞いたことがない。当然息子たちもそんなことペラペラと喋りはしない。江ノ島でプロポーズだったというのがネタ化しているだけ。

するとそこに尊が顔を出した。帰宅が遅い尊は週末の朝食に顔を出すことはほとんどなく、ゆっくり寝坊をしてから起き出してきて、まずは姪と甥を愛でる。しかし只今じいじが孫サンドで満喫中である。

「お前がちゃんと朝起きないから悪いんだろ」
「親父、今8時半、世間的にはまだ朝だよ」
「アマナと寿里はじいじと遊ぶんだもんね~」
「じいじは毎晩遊んでるだろ~」

アマナと寿里の取り合いだ。本日カズサは父のチームのちびっ子バスケ教室に参加しているので留守。頼朝も外出予定で部屋にいる。尊にとってもアマナと寿里を存分に愛でるチャンスなのだ。

「アマナ~寿里~みこのとこおいでよ~」
「じいじの方がいいもんな~」
「みこのとこ来たら水族館連れてってあげるよ~」
「えっ、何それ行きたい」
「えっ、何行きたいの!?」

身を乗り出す新九郎に尊が素っ頓狂な声を出した。親父が行きたいのかよ!

「カズサもいないんだし、頼朝もでかけるし、みんなで行こうよ!」
「えっ、みんなで!?」

急に声をかけられたも驚いてソファに座ったまま少し飛び上がった。だが、由香里はうきうきの新九郎に向かって低い声を出した。

「私は行かれないわよ。カキさん来るから」
「あーっ、そうだったー」
「てか夕方にはぶーが来るし、エンジュもやることあるのよ」
「えー、それじゃあ尊だけかー」
「えっ、親父とふたりで!?」

じいじと甥姪連れて水族館。尊は笑顔だが目が笑っていない。

……親父、水族館じゃなくて、公園でもいい?」
「おお、なんでもいいよ、アマナ、寿里、みこと遊びに行こうか~!」
「じゃあお弁当作ってあげようか」
「わーい!」

由香里の言葉にわーいと言ったのは新九郎だ。アマナと寿里の手を持ち上げて喜んでいる。

「じゃあ尊、あとはよろしく」
「は、はい……

自分で言った手前、後に引けない苦笑いの尊であった。

とエンジュも手伝って由香里が弁当をこしらえると、少々目が死んでいる尊は新九郎じいじと子供ふたりを連れ、車を出すなら駅まで頼むと便乗してきた頼朝を乗せて出ていった。

おばあちゃんは元々自宅にいる時は自室から出てこないタイプだし、新九郎たちが出かけてしまうとリビングにはとエンジュと由香里だけが残った。

「たまにはこんな風に静かなのもいいでしょ」
……やっぱりわざとだったんだ」

弁当支度を片付け終わった由香里は、3人分のお茶を入れて戻ってきた。清田家にはあるまじき静寂のリビングに湯気が立ち上る。それを手にして漂う香りを嗅いだエンジュは目を細めて微笑んだ。

由香里がカキさんとやらを待っているのは事実だが、今日はもエンジュも特に急ぎの用はない。口を滑らせたのは尊自身だし、由香里はそれを利用しただけだ。

「みんなもっともらしく綺麗事を言うけど、やっぱり子供はやかましいわよ」
「カズサがいないだけでも本当に静かになるもんね」
「カズサは信長に似てると思ってたけど、信長の方がまだ静かだったわ」

恐らく信長とカズサの違いは三男と長男初孫の違いだろう。と由香里は甘やかしたつもりはないのだが、新九郎が全て台無しにした感は否めない。新九郎は同様にアマナと寿里も甘やかしているが、こちらは本人たちの反応が弱いせいもあってカズサのような奔放さはない。

相変わらずテーブルの上には惣菜やらお菓子やらが並んでいて、犬たちが通り過ぎざまにスンスンと匂いを嗅いでいく。そんな静かなリビングで、はまたアルバムを手に取った。

アルバムの中の写真には、シックスパック新九郎とアイドルのような由香里がふたりで写っているものが増えていく。デートのように見えるが、やエンジュの目にはずいぶん質素な行楽に見える。

「そりゃあそうよ、私も貧しかったし、お父さんだってまだ働き始めて2年とか、そんなものだし」
「それにしても結婚早かったんだね」
「ゆかりん二十歳だもんね。いつ頃知り合ったの?」
「ええと、18の時」
「じゃあ知り合って2年で結婚しちゃったのか」

昨今の24歳でも早い結婚と思われる傾向にある。ましてや由香里のように二十歳で結婚など、ごく稀になりつつある。が、由香里いわく当時はそれほど珍しいことでもなく、の24歳は「ギリギリ適齢期」とのこと。

「それで、お兄ちゃんを生んだのが」
「22の時。もう少し後がよかったんだけど、気付いたら出来ててね」

二十歳で結婚して以来、由香里はこの家を守ることと、子育てと、ありとあらゆることに毎日振り回されながら走り続けてきた。今もまだ走っている。というより、嫁やら居候やら孫やらが増えて、余計に慌ただしくなってきている。

「まあ、この家に嫁ぐ以上、有閑マダムになれるとは思ってなかったけど」
……ねえ、ゆかりん、どうして彼と結婚しようと思ったの?」

本人が望むので、エンジュも「ゆかりん」と呼び始めた。元々エンジュは柔和な話しぶりと笑顔で人たらしの気があるし、今もそう問いかけた彼の声に、由香里は緩んだ表情をしてソファに深く身を沈めた。若かりし頃と違い、今の由香里はとにかく派手だ。今日もラメ入りのレギンスを履いている。

――オレより由香里さんを愛している男は世界中探してもどこにもいない、もしそう言い張る男がいたら連れてきてくれ、絶対に勝つ自信がある、だから由香里さんはオレと結婚するのが一番幸せになれる。そう言い張ったのよね、江ノ島で」

もエンジュも、わあ素敵、と言いかけたのだが、江ノ島で締められてつい吹き出した。

「正直プロポーズされた時は忙しい時期で、今いきなり結婚なんて……と気乗りしなかったのよね。だけど、それにうっとりしてしまったというよりは、そこまで言うんならって、なんかその強引な理屈に乗ってみたくなったのよね。それが本当かどうか試してやる、っていうか」

清田家三兄弟のうち、「負けず嫌い」は信長に一番色濃く受け継がれているが、その源流は由香里のようだ。新九郎も情に厚く涙脆い人物だが、戦闘力高そうな外見とは裏腹に、好戦的ではない。それは車の運転にも現れていて、清田家で一番運転が荒いのは由香里である。

「私の家もなかなか面倒くさい家だったから、早くそこを出たいというのもあったけど」
「ゆかりんの実家って、近いんだよね?」
「元々の場所はね。今はもうないわよ」

新九郎はこの家で生まれ育った人だし、由香里も隣の市の出身だし、地元民が地元民同士で結婚して地元で生活している状態。それでも新九郎は仕事で関東圏内をどこへでも行くわけだが、由香里はずっとこの家、そして市内程度の狭い範囲で生きてきた。

高校生の時に転居をしてまた戻ってきた、生まれ育ちは東京だが、進学で家を出たきりのエンジュには、少し慣れない感覚だった。

由香里はすっかり緩んだ目をして、お茶を啜る。

「そうねえ、これも家族の歴史のうちだろうし、あなたたちには話しておこうか」
「家族の歴史?」
「何となく……息子たちに詳しく話す気にはなれないんだけど、あんたたちならいいかなって」
「ええと、オレ一応男だけどいいの?」
「それがねえ、女とは思ってないけど、男って感じもしなくてねえ」

由香里が真顔でそんなことを言うので、はまた吹き出した。自分と全く同じ感覚だったからだ。

みたいに、まるで自分の娘のように感じるわけではないんだけど、そうねえ、甥っ子みたいな感じって言えばいいのかしら。それに、お父さんも、息子3人も、カズサたちも、あの人たちは最初から清田家の人間だけど、私たちは違うでしょう。それは絶対的な共通点じゃない?」

と信長との間で「嫁兼夫」ということになっているエンジュもつい頷いた。

「家族がどんな風に生きてきたかを知らないっていうのは、案外面倒のもとになったりするのよ。歳を重ねていくと自分だけでは管理しきれなくなっていくし、それは次世代の誰かが把握しておいてくれないと、結局みんなが困るのよ。あるでしょう、死んだお祖父ちゃんの葬式に愛人が突然現れて大喧嘩になったとか、そういう話。あれも似たようなものだと思うのよね」

だけど、それを「最初からこの家の人間」である息子たちに詳しく話す気にならなかった。どうせなら「他人同士」であるとエンジュの記憶に投げかけておきたい。そういう由香里の思いだったのだろう。せっかく人が出払っていて静かだし、待ち人もあるし。

「私の実家の情報とかそういうのはいずれ書き残しておくけども、そういうのじゃなくて、話ね」
「ゆかりんの子供の頃の話?」
「そこは大した問題じゃないわよ。そうね、結婚前後の話」
……ロマンスたっぷりの惚気話とはいかないみたいだね」
「あら、そういうのもあるわよ」
「ただ、そうじゃないのもある……ってわけね」

3人はお茶を口に含んだまま笑った。

人に歴史ありとはよく言ったもので、誰しも「あの時は大変だった」という話のひとつやふたつを持っている。大変すぎてつらい記憶だから誰にも話したくないという場合もあろう。けれどこれは、本人の言うように「家族の歴史」のうちでもある。

きっとカズサやアマナはと信長の苦難の恋の物語を聞かされ、記憶し、いつか自分たちの子やその家族となる人々に語って聞かせることだろう。そうして家族の歴史は紡がれていく。

由香里は居住まいを正すと、スッと息を吸い込んだ。

「私の苦労の根源は全て父にあるんだけど、これが大変だったのよ」
「父……信長のおじいちゃんてこと? 確か早くに亡くなったって」
「まあそうね、私が結婚した時はもういなかったから」
「それってまだ……かなり若いよね」
「そうねえ、いくつだったかしら、50になってなかったと思う」

信長には両祖父の記憶がない。由香里の父はそれほど早くに、清田の方の祖父も彼が幼い頃に亡くなってしまった。だから余計に新九郎と由香里は忙しかったわけだが、そういうわけで、「元は他人」であるやエンジュは、新九郎と由香里以前の人々の物語を何も知らないのである。

……頭のいい人でね。頼朝はきっとあの人に似たんだと思うんだけど」

新九郎もバカではないのだが、頼朝は少々出来が良すぎたし、尊も勉強は出来る方だったし、バカということにされている信長だって絶望的な成績になったことはなく、ちゃんとバスケットと両立してきた。それは自分の父親の遺伝と考えているらしい。

「わかりやすいコースよ。近所では神童って言われて、トントン拍子に有名大学に入って、末は博士か総理大臣かっていう期待を一身に背負っていたんだけど、頭が良すぎるのも良くないのよね、しかもそういうのが集まってるでしょう、どんどんのめり込んでいったのね」

由香里の父親というと、少なくとも戦前生まれということになる。学生の頃なら、まだ世の中は混迷を極めていたろうし、高度経済成長などまだ遠い話、優秀な頭脳を持つがゆえに、混乱の時代をどう生きていくかについては悩み多き時代だったかもしれない。

自虐的なため息をついた由香里は、尊のような苦笑いを浮かべた。

「あの人は、私の父は、いわゆる『思想活動家』だったの。それも、だいぶ過激な」