えにすのはなはなほ

1

そもそも彼には、ピンク色の服が着たかっただの、幼稚園ではおままごとばかりしていただの、そういったエピソードはなかった。小学校低学年くらいまでは日曜日の朝に放送されるヒーロー物が大好きで、何かと言うと関連グッズを親にねだっていた。

運動はそれほど得意ではなかったけれど、幼い頃からやけに体が柔らかかったので、器械体操や床運動などは上手で、中学生の時は体操部に入っていた。

そんな彼に変化が起きたのはその頃だっただろうか。

二次性徴の折、しなやかな体と美しい肌を持つ彼は女の子に大変モテた。見栄えが良いだけでなく、彼は誰に対してもゆったりと優しく接することが出来るので、ちょっと親しくなると女友達はすぐ彼に恋をした。粗野で意地悪で差別的な他の男子とは月とスッポン、王子様だった。

それ自体、彼はとても嬉しく感じていた。他の男の子とは違う、君は特別なのだと言われると少し誇らしかった。運動に長けた頑健な肉体を持つ男子に比べたら軟弱なのではと思うところもあったので、そういう体を持たない分、こうして女の子に好いてもらえるのだと思っていた。

そうして数人の「特に親しい女の子」たちから、わかりやすい好意の目を向けられていることに気付いた彼は、大人になりつつある脳内でそれなりに悩んだ。「この中の誰と付き合ったらいいんだろう」と。正直、突出したひとりがいるわけではなかった。みんな彼に惚れているのでどこまでも優しい。

しかし誰とも付き合わずに放置したままというのは、とても不誠実な気がした。

そこで彼は長く悩んだ挙げ句、2年生の終わり間近にひとりの女の子と付き合い始めた。理由は3つ。同じ体操部ではないこと、自宅が近いこと、そして成績が近いこと。

同じ体操部の子は最初に除外した。3年生になって数ヶ月で引退とは言え、何が後輩たちに影響するかわからない。一緒に過ごした時間で言えば一番長かったであろう体操部の「彼女候補」はショックを受けていたけれど、それは彼女以外の誰を選んでも同じことだ。

次に、3年生になるということは受験が控えている。彼女と遊んでる場合ではないのだからして、自宅が同じ方向だと時間を作りやすい。登下校を一緒に過ごすだけでもかなりの時間を使える。せめて帰路の半分くらいは同じ方向がいい。

そして最後に同程度の成績であること。彼の「彼女候補」の中には毎回学年で10位以内になっているような子と、既にギャル化が進行中で漢字もろくに書けない子がいた。どちらも友人としてはとても親しく出来たけれど、付き合うとなれば話は別だ。どちらも除外した。

そうやって女の子たちを「ふるい」にかけ、すべての条件に当てはまるひとりを選びだしたのは2年生の3学期も末のことだった。ホワイトデー、ひとりだけ少し特別なお返しを用意した上で付き合ってほしいと言うと、彼女は涙ぐんで頷いてくれた。

ぎゅっと抱きついてくる「彼女」を抱き返し、じんわりと押し寄せる幸せに浸っていた彼は、この子と長く仲良く出来たらいいなと思っていた。地球上に人間なんて何十億人もいるというのに、こうして思いが通じ合うことは奇跡だ。そんな風に思った。

しかし、彼女は彼女で、いざ付き合うとなったら、ライバルが多いことが不安になってきた。ひとりだけ抜け駆けしたわけじゃない、バレンタインはそれぞれ好きなものを送ったのだし、それのお返しをきっかけに告白してきたのは彼の方だ。でも、攻撃されるとしたら、自分の方に違いない。

そんな不安を打ち明けられた彼は、いつまでも宙ぶらりんでいるわけにはいかなかった、彼女たちがもし怒って問い詰めてくるようなことがあったら、誠意を持ってしっかり話をしたいと思う――と言った。すると彼女はまた彼に抱きつき、か細い声で囁いた。

「私を守ってね」

彼女を抱き締めた彼の胸に、真夏の夕暮れ時のような、もやもやとした気持ちの悪い風が吹き抜けた。

「まあだけど、親はありがちかなあ。名前でもわかるでしょ、次男なのに寿一」
「お兄さん、慶太郎さんだっけ? おめでたい揃えなのかと思ってた」
「それもあるけど、結局『一番になれ』って意味だから」
「親父さん、かなりマッチョだもんなあ」
「見た目だけじゃなくて中身もマッチョだよ。てかそれ、母親も同じだからさ」

エンジュこと遠藤寿一は、とある日曜の午後、神奈川にある親友夫婦の自宅へ遊びに来ていた。その親友夫婦に子供が生まれたからだ。結婚からほどなくして嫁の方である清田が妊娠、当初は産休を取得して出産後は職場復帰しようかと考えていたけれど、それほど愛着のある職場ではなかった。

どちらかと言えば職場は「神奈川に帰るための手段」であって、彼女の夢は一貫して現在の婚家である清田家の嫁になること。その清田の血を引いた子以上に優先したいものはなかった。

それをまず夫である信長に相談し、次に義母である由香里、義兄である頼朝、とそれぞれに考えを打ち明けて相談したところ、赤ちゃんフィーバーに沸く清田家、「辞めたかったら遠慮なくいつでもやめろ」と皆の気持ちを後押ししてくれた。

最終的には頼朝の「金のことは心配するな、オレがいくらでも都合つける」という頼もしい一言では退職を決意。いずれまた働きに出てもいいわけだし……と気楽に考えては出産に臨んだ。

何しろ義父義母である新九郎と由香里にとっては初孫、そして頼朝と義次兄の尊にとっては初の甥か姪か、とにかく清田家はやがて生まれくる赤ん坊に夢中になった。そんな中で、息子3人に地元の将軍頼朝、尊氏由来の尊、天下布武信長と名付けた湘南の蝮こと新九郎は勝手に名前を考え出した。

「まあ、100パーやると思ってたけどな」
「戦国武将のオンパレードだったんじゃないの」
「わかってたことなんだけど、お兄ちゃんが怒ってね~」
「だってそういうの、頼朝さんしか怒る人いないじゃん」

エンジュは両腕に生後3ヶ月の赤ん坊を抱いてニヤニヤと笑った。

……私が初めてこの家に来た時、信長は国体の合同練習の日でさ。それでみこっさんが送っていってくれることになったんだよね。その時にやっぱり名前の話になって、私は、尊ってヤマトタケルノミコトから取ったのかと思った、って話をしたんだけど」

もう10年も前の話になる。は少し遠い目をしながらゆったりと微笑む。

「結局、それがヒントになったんだよね」

新九郎が孫の名前を、しかも男の子と断定して考え始めていると知ったと信長は、彼の好む戦国武将由来の「立派な名前」を回避するには――と考え始め、そしての言うように尊との会話がヒントになって、まだ性別も確定していない段階で子供の名をひねり出した。

「そっかあ、でもいい名前をもらったねえ、可須佐」

清田家は男子しか生まれない呪いがかかっている、ともはや親戚同然のぶーちんこと小山田桃香は笑ったが、と信長の間に生まれた子は男児であった。そして、あわや吉継だの氏郷だの元親だのという戦国ネームになりかけた彼は、両親から「可須佐」――カズサという名を与えられた。

建速須佐之男命――ネタ元は、スサノオノミコトである。

スサノオの「須佐」には猛り荒ぶるというような意味があり、またそうかと思えば神話を代表する英雄譚を持ち、歌を読むなど文化的側面もあり、新九郎が望む「男子」のイメージとしてこれ以上ないモチーフだった。名前らしくアレンジをしてカズサとしたが、「可」も可能性から取っている。

これにはさしもの新九郎も反論ができず、重ねて頼朝から説教されて引き下がった。そんなエピソードを聞いたエンジュはカズサの頭に何度もキスをしながら楽しそうに笑った。

「でもずっとエンジュって呼んでるから、改めて寿一とか言われると誰のことだっけってなるよな」
「それでいいよ、オレもエンジュの方が気に入ってる。きれいな白い花をつける木なんだよ」

エンジュは恋愛対象の95パーセントが同性のゲイであるが、5パーセントくらいなら女性でもいけるという体質で、10代の頃から子供が欲しいという願望が途切れたことはなく、の妊娠がわかったときも大喜びしていたし、今日もカズサをずっと腕に抱いたままだ。

そして、彼は子供が欲しいという願望を抱き始めた10代の頃から両親と折り合いが悪い。本人の言うように内も外も「マッチョ」である両親はエンジュのたおやかさを未だに受け入れられず、また運の悪いことに兄の慶太郎は両親の望むような青年へと順調に成長したものだから、余計にこじれている。

「やっぱ赤ちゃんはいいなあ~かわいい~幸せになるよね~」
「兄貴んところはどうしたよ。結婚してしばらく経つだろ」
「まだなんじゃないかな。義姉さんも仕事が忙しい人だから」

マッチョな両親の願いどおり、頑健な体、包容力のある性格に育ち、生産性のある「男らしい」仕事に就いている兄・慶太郎との仲は悪くない。学生時代は現在の義姉と3人で同居していたくらいだ。だが、彼らは結婚後、実家の隣に家を構えてしまった。行きにくい。

「オレほんとに女性化願望はないんだけど、自分で産めたらなって、それだけは思うよ」
「エンジュが子供産めたら今頃3人くらい生まれてそうだね」
「父親が全部違うんだろ」
「ふたりともひどい! その通りだと思う!」

どうやらカズサは今日は頑として起きないつもりであるらしいので、エンジュとと信長は声を立てて笑った。本人曰く恋愛にアグレッシヴになったのは高校生の頃だそうだが、信長が彼と知り合った19歳の時には既に10人以上の「元カレ」がいた。

「何なら女の子でも付き合える、っていうのが余計にもどかしいんじゃないの」
はほんとにオレのことよくわかってくれてるね」
「実際付き合ったことはあるんだろ?」
「まあね。5人ほど」
「エンジュは嫌がるけどみこっさんのこと言えない数字だと思う」

エンジュは「同族嫌悪」なので尊は苦手だという。確かにふたりとも柔和で「きれい」なタイプで人当たりもよく、誰にでも好かれる人物ではある。エンジュは「それやだ」と言いつつ、頷いている。

「やっぱりどうあがいても自分の子は誰か女の子に生んでもらうしかないからさ、それでも真面目に付き合えそうな子とはちゃんと向き合ってきたつもりなんだけど……どうにも一緒に子供を育てていかれそうな子には出会えなくてね」

無理もない……と信長は考える。相手となる女性の問題だけでなく、エンジュ自身が「妻と子を守る男性」というイメージからは程遠い。おそらく女性の方も付き合うだけならいいけれど、結婚して子を設けて育みたい相手とは思えなかったに違いない。

「男の方の好みはともかく、女の子はどういう子ならいいんだ」
みたいな子かなあ」
「そういうのいいから」
「あはは、それほど冗談でもないんだよ。将来モンペになりそうな子は嫌」

エンジュの声が一段低くなったように聞こえて、と信長はつい黙った。

「それに、うちの親ってのは本当に『男とはこういうもの』っていうのを譲れない人たちでさ。もちろんオレがゲイだなんて知らないけど、一度も彼女を紹介したことがないから、親父には『腑抜け』って言われてたよ。今の仕事も気に入らないみたいだし、オレっていう人間をどうしても受け入れられない人たちなんだよね。それはモンペとはまた違うけど、そういう風になりそうな理想の高い子も嫌だな」

兄の慶太郎が理想通りに育っていく傍ら、弟の寿一は年々ナヨナヨしていく――彼の両親はそれが長年の「悩み」だったそうだ。冠婚葬祭などで親族と話す機会があると同じことを繰り返し、「だけど美少年じゃないの、モテるでしょ」と言われると眉をひそめ、「まさか」と返していた。

両親が「悩み」を隠さなくなった頃、エンジュは高校生、自分が同性愛志向が強いことを自覚していた。同じ学校の同級生と付き合うことは出来なかったけれど、出会いを求める場に潜り込んでは交友関係を広げ、年上の男性と関係を持つようになっていた。

本人曰く「一浪したのは、真剣に駆け落ちを考えた相手がいたから」だというが、その辺りは定かではない。とにかく彼は1年浪人して、そして信長と同じ大学に入ってきた。

「どんな子が生まれてきても、その子が望む人生を送らせてやりたい、そのために何だってしてあげたい、そういう風に思える人がいいんだ。自分の望む子になってほしい、じゃなくて、自由に生きてほしいんだよ。そういう人と家族になりたい」

自分がそうしてもらえなかったから。

「転職先でそういう子がいるといいな」
「オレを入れて男3人しかいないんだけどね。オフィスも小さいし」

学生時代に付き合い始めた彼氏の会社で働き始めたエンジュだったが、このほど転職をすることになった。実は彼氏ともあまりうまく行っていない。その上この度の転職はほぼヘッドハンティングであり、店舗勤務の接客業だったのが、一気に外国企業の日本事業担当になってしまった。

そもそも彼氏の会社というのが、外国製の高級カトラリーを輸入・販売する事業を営んでいて、エンジュはその都内の店舗で販売員をしていた。しかし何しろエンジュである。ラグジュアリーさをお求めになられるお客様にとって、彼のしなやかで柔らかなセールストークは効果絶大。入社2年目で売り上げトップに躍り出るほどだった。彼氏は大した慧眼の持ち主ではある。

だが、それと時を同じくして彼氏との関係はグズつき始め、元々は異性愛者だった彼氏は最近「女性との法的に合法な結婚の重要性」とかいう話をエンジュにまでしてくるようになった。

それを耐えていたエンジュのもとにヘッドハンティングの話が舞い込んできたのは、カズサが生まれる前のことだった。勤務している店舗でも取り扱っている欧州のテーブルウェアメーカーが、東京の町工場を買い上げたのである。

大正時代から続くその金属加工業の町工場は、昨今にしては珍しく後継者も従業員も問題なしというところで、しかし最近「大親方」と呼ばれる長老が亡くなったので、代替わりしていた。そこに目を付けたのが転職先のテーブルウェアメーカーで、アジア展開のための拠点として、その町工場を選んだ。

しかし現地日本人スタッフがいない。メーカーは町工場との繋ぎになってくれそうな人材を探し始め、取引先の従業員であるエンジュに白羽の矢を立てた。日本の職人さんは気難しい人が多いから、接客で成績トップの人間なら上手くやってくれるのではないか――という思惑があったらしい。

エンジュはほんの数日悩んだだけで、誰にも相談せずにそのヘッドハンティングに応じることを決めた。彼氏の会社だったからコネでそのまま就職したのだし、元からテーブルウェアに興味があって接客業に就きたかったわけではない。彼氏とも決別するいいチャンスだと思った。

「もう家は出たのか? 手伝いとかいるなら……
「ううん、まだ。でももうすぐ出るよ。荷物少ないから平気」
「彼氏……何も言わなかった?」
「うーん、言ったような言わなかったような。たぶん、もうオレに興味ないんだと思うから」

エンジュはずっと「ノンケは落としやすい。同類は色々難しい」と言ってきた。その通り、もうすぐ別れる予定の彼氏は本来的には異性愛者で、エンジュが初めての同性のパートナーだった。彼の方も女性相手に疲れていた時期で、それにつけ込んだエンジュはたいそう可愛がられた。

しかし、一回り年上の彼氏は気付けば周囲の同年代に既婚者の方が多くなり、家庭生活恋しさと言うより、エンジュをパートナーにしている限りは「既婚者というステータス」を得られない、ということに危機感を覚えるようになってきた。革新より安定を醸し出したいお年頃だ。

女が面倒な時期はエンジュという「絶対に子供が出来ないパートナー」で満足だったのだ。エンジュは男性の思考と女性の感性を併せ持つ状態だったので、彼はあまりに心地よい数年間を過ごした。女の鬱陶しさを感じることなく、女にやらせたいようなことを丸投げできる相手。それがエンジュだった。

彼が愛していたのは快適な生活であり、自分の仕事の邪魔にならない、しかし欲求を満たすことの出来るパートナーであって、自分自身ではなかったのだなとエンジュは思い知らされた。彼が繰り返し囁いてきた「お前だけ」は「そういう条件を満たしてくれるのはお前だけ」という意味でしかなかった。

彼氏とうまくいっていない、だけど仕事の関係もあるから明日すぐに別れるわけにもいかない……そんな話はちらりと聞いていたと信長だったが、転職が決まって初めてすべての事情を知ることになり、特には顔を赤くして怒っていた。

だが、微妙な不仲期間を挟んでいるので、エンジュ自身は晴れ晴れとした顔をしている。しかも転職後は収入が大幅にアップするのだそうで、そうしたらにお小遣いをあげるねとにこにこしていた。既に頼朝と尊からもらっているはしかし、満面の笑みで「ありがとう!」と即答した。

「転職は何も問題ないんだけど……少し忙しくなるからみんなに会えないのだけ、寂しいな」
「無理すんなよ。疲れたら来てもいいんだぞ」
「ふふん、清田家って不思議だよね、なんとなく長居したくなっちゃう。の気持ち、わかる」

しばし新生活で親友夫婦とゆっくり会う時間が取れるかどうかは怪しい。は退職したので家で子育てをしているし、カズサにも会いたいのに。それだけは転職のデメリットだった。

しかし新たに設けられた部署が軌道に乗りさえすれば時間も取れるはず。エンジュは早くそんな余裕を持てるように頑張ると言っているし、少し寂しいけれど、我慢だ。

エンジュが子供を共に育むパートナーに望むように、と信長は彼が思うまま生きていかれることを願っている。彼が心から信頼できる相手を伴侶に選び、そして子供を授かれるよう願うばかりだ。それまでの間、なにか困ったことがあったら何でも言ってほしい。

「でも、絶対また来るよ。ふたりに会えないの、耐えられそうにないし」

そう言ってエンジュはにっこりと微笑んだ。

だが、それから3年もの間、彼はこの清田家を訪れることはなかったのである。