「もう限界だ。耐えられない。我慢出来ないんだよ」
頼朝はくぐもった声で背を丸め、左手でうなじをさすった。
「頼朝さんそのテンプレな台詞とモエ仕草ってわざと?」
「えっ、なに?」
「エンジュ、この人冗談通じないから」
「冗談言ってる場合じゃない。この貧弱な水回りで大人8人子供3人犬4匹だぞ」
全ての手続きが終わり、エンジュと寿里が新九郎の言うところの「うちの子」になって1週間、ふたりはすっかり清田家に馴染んでいた。普段の慌ただしさが少しだけ和らぐ土曜の朝、頼朝はリビングで呻いていた。それに茶々を入れていたのはとエンジュ。
頼朝の言うようにこれだけの大家族だというのに、とにかく現在の清田家は水回りが足りていない。風呂、トイレ、洗面所。のみならず、キッチンも人数に対して狭い。コンロ足りない。
そしてそれはと信長が結婚したあたりで既に危惧されていたことだった。だというのに、毎日の忙しさでどんどん先延ばしされてしまい、気付いたら大人がひとり、子供が3人増えていた。
「もう限界だ。ぼーっとしてたらあっという間にカズサが大人になるぞ」
「ええと、でももう出来てるんでしょ? 設計とか」
「とっくに出来てるよ。カズサの妊娠がわかった頃には完成してた」
「まあ、色々重なったからね……」
清田家は居住スペースと事務所がくっついた構造で、なおかつ大人数の暮らす家なので、全部更地にして立て替え――というのは現実的ではない。仮住まいの都合をつけるだけで大変だからだ。由香里からそれを釘刺されていた頼朝は、誰も転居しないことを前提にリフォームの計画を立てていた。
そこにさらに子供が増えてしまったので、余計にリフォームが進まなくなってしまった。
しかし頼朝に言わせれば、それは言い訳に過ぎない。
「ま、そのおかげで予算充分、準備も出来てるわけなんだけど」
「じゃあ始めたらいいんじゃないの?」
「カレンダー見てみろ」
「あーうー」
大人8人それぞれ全員忙しい清田家、カレンダーは基本1ヶ月先まで予定がビッシリ。そんな状態でいつ始めればいいと言うんだ。頼朝はそれに焦れているようだ。
「でまたオレがこの状況をどうするんだと喚けば皆やる気をなくす」
家族全員に関わることでは、今でも最終決定権は新九郎と由香里にある。しかしこのふたりは信長が幼い頃に先代を亡くし、以来毎日その日を生き抜き、家族と会社を守ることにしゃかりきになってきた。頼朝のような合理性はない。
そのためこうして頼朝が耳に痛いことを言う羽目になるケースが多く、また頼朝は生まれつき尊やエンジュのように優しい話し方もせず、そのため外では嫌われ家では煙たがられることもしばしば。
しかしリフォームが急を要するという点に置いては頼朝が正しいのだ。
「……頼朝さんてほんと損な性分だよね」
「……そうなんだよね」
清田家とは血縁のないとエンジュはこそこそと顔を寄せ合って困り顔だ。
「ねえ頼朝さん、でも放置してればカレンダーはどんどん埋まっていくし、真夏にかかるよりはせめて梅雨に入るまでに出来ることはやっちゃったらどうなんだろう」
現在4月。昨今は春なら秋なら好天続き……なんていうイメージ通りには行かないわけだが、それでも梅雨時期に内装に入れた方が効率がいいし、エアコンの欠かせない季節に家に穴を開けるのは出来れば避けたい。エンジュの遠慮がちな声に、頼朝は何度か頷く。
「でもオレが言うとなあ」
「私たちも言えた立場にないしねえ」
「こういう場合って、順番で言ったらみこっさん?」
「1番頼りにならない……」
尊の場合は家庭内のことに余計な口出しはしないというスタンスだが、同時にその辺は徹底して無関心無責任とも言える。今この家庭内における彼の最大の関心事は甥姪と寿里であり、まあその次に犬たち、というくらいだ。頼朝の代わりに全員を取りまとめて話を進める、なんてことはやりたがらないし、出来もしない。
一見身内にも他人にも分け隔てない暖かい家庭に見えるけれど、実はこの家は「緩衝材」がない状態とも言える。それぞれ家人に迷惑をかけないよう、穏やかに暮らせるよう気遣い合いながら生活しているけれど、その全員の間に入って繋ぎ目になってくれる存在がない。
常々尊は気にすることはないと言うけれど、現在専業主婦のは嫁という立場も手伝って積極的になれないでいるし、いわば居候であるエンジュもそれは同様だ。いくら稼ぎの全てを預けているとは言え、ここで仕切れるほどにはまだ親しくない。
しかしもう時間はないのだ。頼朝の言うように、ぼんやりしていたらカズサが大人になってしまう。
エンジュはふと思い立って、に目配せをすると、背筋を伸ばした。
「ねえねえ頼朝さん、リフォームって具体的に、どんな風に変わるの?」
「え? だから水場を増やして……」
「オレ、建築のことはさっぱりわからないズブの素人だから、もっと簡単に教えて欲しいな」
「えーとだから、そう、2階に風呂場を作る」
「そうなの!?」
水場不足で苦労していると言ったら女性陣なので、頼朝の言葉には歓声を上げた。
「アマナもいるしな。下と上で分けたいし、出来ればシャワールームも付けたいんだ」
「しゃ、シャワールームってどういうこと?」
「ええとその、うちは男が多いから、女性はサッと使えるシャワーがあった方が便利だろ」
「うん、便利便利」
「だから普通の風呂場とは別に、独立したシャワーブースを付けようかと……」
「なにそれ、お兄ちゃん、早く、それ欲しい、お願い」
ここ数年好きな時に使えるバスルームがないことはにとっては大変なストレスにもなっていた。それが女性優先のシャワーブースとは。は身を乗り出して目を輝かせ始めた。今すぐ欲しい。
「2階にお風呂が増える、他には?」
「エンジュも何か要望があるのか?」
「ううん、そういうことじゃないけど、どんな風に変わるのかなって」
「あとはそうだな、ランドリールームを作ろうかと」
「お兄ちゃん……それも早く……」
洗濯機を増設したくても置き場がないので、エンジュは自主的に自分の分はコインランドリーに行っているし、最近ではも毎度それについて行って追い付かない分を洗っている。尊はクリーニングをよく使うし、新九郎の作業着は庭の洗濯機で洗っているが、ここももう限界なのだ。
清田家が10LDKあると聞いて、信長の先輩である沢嶋選手は食べていたケーキを吐き出しそうになるほど驚いたが、その実生活機能とでも言うべき設備は4LDKくらいにしか対応していない。頼朝の言う「貧弱」はまさに正しい。
「それにしても、以前はどうしてたの。もっとたくさん人がいたこともあったんでしょ」
「ああ、えーと、銭湯とかコインランドリーが普通だったらしい」
そもそもこの家は新九郎の父親である先代が増築を繰り返して出来上がった家であり、最近ではと信長の結婚で2階の部屋を直したけれど、それ以前と言うと、更に遡って信長が幼稚園の頃に風呂場を直したことがあるだけという話だ。
「それじゃあ付帯設備だけじゃなくて、耐震なんかも……」
「もちろん。オレが本当にちゃんとやりたいのはそっちの方なんだよ」
「だけど基礎を全部取り替えるわけにもいかないでしょう」
「それはどうしても『補強』という形になるけど、きちんとやるよ」
ついでに事務所も直すと頼朝は言っているが、つまり、すっかり建て替えにはならないが、総取り替えにはなりそうだ。この家で暮らす人々が長く安全に心地よく暮らしていくために。
「……子供たちが独立していくまでちゃんと住める家にしたいんだ」
「お兄ちゃん……」
「もちろん寿里もだぞ。ああでもカズサはなんだかわからんな」
「まだ決まってないって」
本日カズサはジジババと父の仕事場見学に行っている。つまり、バスケットの試合を観戦しに行っている。最近カズサはバスケットに興味を持ちだしてきて、家でもよく父親の試合の映像を見ている。
父親本人は積極的にバスケットを勧めるつもりはなかったようだが、どうにもカズサが飽きないので、本物を見せてみることにしたらしい。自分はもうコートに立つことはないが、バスケットの道を歩み続けてきた先輩である。導いてやれるのは自分しかいない。
カズサがどうもバスケットに興味があるらしい――という話が出てきた頃、それならきっと父親のように小中高とバスケット三昧になるに違いないと笑い話になった。父親の中学は公立だったが、私立に行ってしまうかもしれない、そうしたら中学から家を出てしまうかも、なんて話も出た。
そんな風に出入りもあろう。本人はこの家が気に入っているようだが、エンジュと寿里もどうなるかわかったものではない。由香里は100歳コースだと言うが、お祖母ちゃんも現在83歳。いつどんな変化があっても、柔軟に受け入れられる家にしなければ。
「もちろん、今直せばこの先何十年もそのままでいい、ってわけじゃない。そのためにもきちんと手を入れて、直したい時に直せるようにもしておきたいんだ。それでなくとも他人の出入りは激しいし、もう少しここもこざっぱりさせたいからね」
頭をかきむしって呻くだけだった頼朝は、右手の人差指でくるりと円を描いて笑った。清田家のリビングはだいたい物で溢れかえっており、それはダイニングも侵食し、ダイニングは床もテーブルも犬がかじって引っ掻いてボロボロ。それも直したい。
「お兄ちゃん……」
「大丈夫、全部うまくいくよ」
「……コンロも増やして」
から熱のこもった声をかけられたと思った頼朝は照れたように笑ってコーヒーを飲もうとしたが、違った。あやうく中身を零しそうになったカップを手で支えつつ、頼朝はまたため息を付いた。
「あれもな……足りないよな……」
「これからカズサと寿里が大きくなっていくことを考えると……3口ではとても……」
「えっ、家庭用コンロで3口以上のなんてあるの?」
「いや、業務用か、特注か、2台つけるか。どれかだな」
「……寿里ー清田家ハンパないねー」
「ねー」
エンジュの語尾を真似た寿里がそう言ってにこにこしている。今のところアマナも寿里ものんびりした性格のおとなしい子だが、ふたりも今年揃って2歳になる。どう変わるかはわからない。そうしてどんどん活発になっていくより前に、手入れをしておきたい。
頼朝は深呼吸をすると、ぐいっとコーヒーを飲んで前髪をかきあげた。
「ま、もう1回図面、見直しておくかな。すぐに始められるように」
水場の増強にテンションの上がったはエンジュと相談した上で、その日の夜から誰彼構わずに「リフォームしたらこんな家になるよ」と雑談を仕掛け、なおかつこの家はとても居心地がいいから出て行きたくない、子供たちが独立するまで安心して暮らせる家にしたいなどと吹き込んだ。
頼朝に頭ごなしに「リフォームどうするんだよ!」と叱られると途端に気が萎えるけれど、そうやって雑談レベルで現実的な夢の話を聞かされると心が疼く。ああ、ここ直したかったんだよな、これも新しくしたかったのよね。手入れの行き届いていない家なので願望はいくらでも湧いて出る。
今はまだ継ぎ目と言うほどでもなく、声を大きくして家族を取りまとめるにも未熟なであるが、黙って頷くだけの嫁になる気はない。それは家族ではない。自分のためにもエンジュのためにも、声を上げていかねば。
そしてはロビー活動よろしく、1対1で全員の「リフォームに対する意気」を底上げしていった。全員がリフォーム待ったなしという気持ちにならないとダメなのだ。自分の都合を優先したいのでもう少し待って、は重なり合わない。また先延ばしになるだけだ。
新九郎には、父親から受け継いだ家を刷新するという大仕事、そして充実した孫ライフ、やがて成長する孫たちに「この家はおじいちゃんが建てたんだそ」と威張れるような家を。
由香里には、今にも破綻しそうな貧弱な水回りやキッチンの増強、犬の爪や牙に負けない家具、とふたり家庭内を切り盛りしていくのに使いやすい家を。
信長と尊は簡単でよかった。リフォーム待ったなしだよね、なかなか話が進まないからお兄ちゃんを突っついてるんだけど、さすがだよね、ちゃんと考えてる。そう褒めれば夫はちょっと嫉妬心を抱きつつも話に乗ってくれたし、尊も真面目に話を聞いてくれた。
「エンジュはどんな部屋がいいの?」
「オレはそんなこと言えた立場じゃないよ。居候なのに」
「でも家賃に相当する以上のお金は入れてるんだし」
「お金の問題だけじゃないだろ。オレはその辺は頼朝さんに任せてる」
「うーん、お兄ちゃんて言わなきゃわからない人だよ。要望はきちんと言った方が……」
だいぶ家の中の「リフォーム熱」は高まってきたが、エンジュはテンションが低い。
「要望って言っても、今のところ特にないんだよね。オレは寿里と休める部屋があればいいし、まあそうだね、強いて言えば今のようにたちの部屋の近い所がいいなっていうくらいかな」
は頼朝の言葉を思い出しながら、うんうんと頷いた。今エンジュは仕事と、週末の寿里との時間で精一杯なのである。その他のことに時間を割きたくてストレスをためているなら話は別だが、当座のところはこのままでいいと自分で選んだ生活である。
いつか要望が出てくることもあろう。変化は常にこの家を襲うだろう。けれど、ここに住む人々がこの家に憩いたいと願う限り、この家は良い家であり続けるはずだ。
「はまだ他になにかあるの?」
「うーん、なんだろ、楽しい家にしたいな」
「それって精神論だろ」
夜はと信長の部屋にあるリビンクで過ごすことが多いエンジュ、今もソファでと寄り添いながら、風呂に入っている信長を待っている。信長は帰宅して食事を済ませて風呂に入ったら嫁と親友に挟まれて晩酌の日々である。
そういう毎日を、いつまでも続けていかれるように。
翌週から清田家はかつてない「大改修」へと突入した。
END