「だから細かいことは夜にでも話すって。今日は遅れるわけにいかないんだよ」
海からだいぶ離れた辺りで、清田はの手を解放して携帯で何やら話しだした。ユキはがまだ一緒にいるので、引きずられつつもちらちらとの方へ寄って来ては清田に引き戻されている。
「とりあえず母親の服でも借りてくれるか」
「だからいいのに……」
「今日は我慢しろって。で、送ってってもらうから。いいな?」
清田がぐっと顔を寄せてくるので、は迫力負けして小さく頷いた。先日の件でもそうだが、人見知りをしないでもなんだか急に清田と距離が近くなってしまって、変な感じがする。同じ学校になったことすらない、ほんのちょっとした知り合い、というくらいだったはずなのに。
「うち、ここ」
「は!?」
指を差しながら歩く清田の爪の先に目をやったは、つい素っ頓狂な声を上げた。そこにはかなり大きな家が広々とした敷地に長く伸びていて、道路に面した表には様々な車が何台も並んでいる。
「お、おっきいね……」
「あ、金持ちとかそーいうんじゃないぞ。家族多いし会社とくっついてるし、人が多いんだ」
「会社?」
「メインは工務店。まあちょっと色んなことやってるけど」
言われてみれば、表に止めてある車はなんだか汚れた車が多い。工務店というのは大工もするんだろうか。は首を傾げつつも、大人しく清田の後を着いていった。横に広い表門を抜け、だだっ広いアプローチは芝生敷きに飛び石が埋め込まれていて、灯籠があったりギリシャ彫刻のレプリカがあったりで、とりとめがない。
「あと、とにかく人が多いから怖かったらごめん。何か失礼なことがあったらちゃんとオレに言ってくれ」
「わ、わかった」
「それともうひとつ、うち、兄がいるんだけど――」
「信長! あんたはまたもうそうやって面倒事ばっかり、さっさとユキの足拭いて! あなたはこっち来なさい!」
何かを言いかけた清田の背後で勢いよくドアが開き、清田の母親らしき人物が飛び出てきた。真っ黒な髪と眉のきりっとした美人だが、いっそ清々しいほど派手な装いで、は目を丸くして立ち止まった。見事なヒョウ柄のロンTに黒ラメのレギンスが眩しい。こっちへ来いと言われても足がすくんでしまって動かない。
「いきなり出てきて怒鳴るなよ、ビビっちゃってんじゃん。それに悪いのはオレじゃなくてユキ――」
「そんなことグダグダ言ってないでユキの足拭きなさいって言ってんでしょうが!」
「わかったよ、怒鳴るな!」
清田はに「大丈夫だから」とささやきかけると、玄関ドアの脇にある収納ボックスから犬用のウェットティッシュを取り出してユキの足を拭き始めた。それを目で追っていたは、がしっと腕を掴まれて飛び上がる。
「あなた何ちゃん? 海南の子?」
「あ、あの、わた、私」
「――さん、学校は湘北」
「湘北? 中学一緒だったの?」
「だからちょっと説明がめんどくさいんだって! ユキに引きずられて海に突っ込んだんだよ」
ユキの足を拭きながら清田がフォローしてくれるので、はただかくかくと頷く。
「んもう、まだ夏でよかったわねえ。とりあえず体拭いて着替えようか」
「す、すみませ、おせ、お世話になります」
「いいからいいから、ごめんねえ、うちの犬が。信長、あんた間に合うんでしょうね!?」
「ギリだよ! ユキの後始末も頼む、オレ着替えてくるから。その後駅までよろしく」
「あんたも!? 私も暇じゃないのよ! それで!? 何ちゃん? ちゃん? はい、ちゃんおいで」
はもう為す術もなく清田母に引きずられて清田家に上がり込んだ。
「いやあ、悪かったな、うちの暴れん坊が!」
「はいい!」
今度は清田父である。から見るとけっこうな長身である清田よりも背が高く、幅と厚みが清田の2倍はありそうな、筋骨隆々の髭面が仁王立ちになっていた。はほとんど悲鳴のような返事をして、勢いぺこりと頭を下げた。迫力がありすぎて即・服従の意である。犬なら即・腹出しというところだ。
「信長も間に合わないって言うからふたりまとめて送ってくるわ、ハジさん待てるかしら」
「あっちも時間ねえだろ。オレが行くかあ。ユキは母さんに頼むよ」
「お母さん、もう出かけるわよ、あっちも駅に9時半だもの」
「あーっ、そうだった! ヨシちゃんか、ヘイさんも大変だな」
清田の言うように、この家は人が多くて、しかも日曜の午前中だというのに忙しいらしい。は自分で帰れますと言いたくて、なんとか気持ちを落ち着かせて深呼吸をしていた。服を貸してもらえるなら、送って行ってもらう必要はない。だが、清田父の後ろからまた人が出てきた。
「またなんかやったのあのバカ」
「おーいいところに。悪ィんだけどこの子とノブ送ってってくんないか」
「へえ、あいつ彼女できたの」
「ち、ちがっ、あの、違います、私――」
慌てて否定したはしかし、その言葉の主の顔を見上げて息を呑んだ。やや中性的ながらも、あまりに造作の整った容貌をしていて、やはり背が高く、枯草色の金髪がさらさらと額に垂れている。まあ、有り体に言えばかなりのイケメンということになる。これが清田の言っていた兄なのだろうか――
「あらそーなの。まあおかしいと思ったのよね、バスケばっかりのくせに」
「てか着替え間に合うの? ノブ、もうすぐ出るんだろ」
それもそうだ――という目をして顔を見合わせた清田の両親の後方から清田がすっ飛んできた。
「あれ!? まだ終わってないのかよ」
「あんたは制服着替えただけでしょうが!」
「どーすんだよオレもう既に歩きじゃ間に合わない」
「あれ、ノブもどっか行くの」
「ばーちゃん! 学校だよ、部活!」
清田の祖母まで出てきた。これがまた清田母に輪をかけて派手だ。総白髪に2本、紫のラインが入っている。
「しょうがねえ、ノブ、ちゃんは母さんに預けてばあちゃんと一緒に駅まで行こう」
「えええ、だってそれじゃ――可哀想だろ」
「大丈夫よ、尊に送ってってもらうから」
「全然大丈夫じゃないだろ! 」
だが、刻一刻と清田の遅刻が迫ってきている。清田の顔色にそれを読み取ったは、覚悟を決めた。
「清田くん、私平気だから。今日はありがとう」
「いや、だけど――ああクソ、いいか、あいつには気をつけろ。余計なことは喋るなよ」
「えっ、それどういう――」
「ノブ! 早くしろ!」
「ちゃんはほら、こっち来なさい。夏だからって風邪引くわよ!」
清田父と清田母に追い立てられて、清田との距離が開いていく。
「とにかく、気をつけろよ。またな、あとほんとごめん」
「ううん、そんなこと。ありがとう、またね」
そうして清田は父親の運転する車に祖母と一緒に乗り込み、慌ただしく出て行った。そして取り残されたは、また清田の母親に腕を掴まれて清田家に上がり込んだ。そして追い立てられるままにバスルームへ突っ込まれ、結局シャワーまで浴びさせられる羽目になった。
「これなら平気だと思うのよね、着てみて」
シャワー上がりでタオル巻き状態だというのに、清田母はずかずかとバスルームに入ってきてロングワンピースを掲げた。ファストファッションブランドのワンピースで、も同じ商品の柄違いを持っている。少し安心したはこそこそと後ろを向いて着る。下着もずぶ濡れなので、やむを得ずノーブラだ。
「大丈夫みたいね。ブラジャーどうする? 私のじゃアレだし、かといって……」
「あ、あの、着ていた服を入れる袋を貸して頂けませんか。それを抱っこして帰ります」
「んー! なるほどね! じゃ、髪乾かしてから出ておいで」
やっと事が纏まりそうなのでもホッとして、ぺこりと頭を下げて礼を言うと、清田母が出て行ったところでがっくりと肩を落としてため息をついた。確か今朝は愛犬を失った傷心を抱えて海に来たはずだったのに、なんだかそれもどこかへいってしまった。なんで私清田くんちで風呂入ってんだろう。
もちろん家に帰れば愛犬の亡骸がまだあるのだし、悲しみが二度と湧き上がらないわけじゃない。だけど、自分を追い詰めるような絶望感はもうなかった。清田家は色々ド迫力で怯んでしまうけれど、怖くはなかったし、なんだかちょっと楽しいような気もする。お兄さんもかっこいいし!
気持ちが上向きになったは、清田も使っているかもしれないドライヤーで髪を乾かすと、かなりリラックスしてバスルームを出た。出るなりユキに飛びつかれたが、それも嬉しかった。かわいい。
「早かったわね、もういいの」
「はい、ありがとうございました。あの、私バスがあるのでひとりでも――」
「まあまあ、いいじゃないの送ってってもらえば! とりあえずお茶飲んでいきなさいよ」
お茶ですと!?
せっかくリラックスしていたは、ユキにまとわりつかれながら、また固まった。
清田家のリビングはとにかく物で溢れかえっていて、紙袋やらダンボール箱やらが壁際に積み上げられ、巨大なテレビの両脇にはトロフィーや賞状がぎゅうぎゅう詰めになっている。そのテレビの前に置かれているソファーセットも大きく、頑張れば10人くらい座れそうな大きさだ。
その巨大なソファーセットの片隅に座らされたは、何もかもが大きく騒がしい清田家に完全にビビってしまい、膝の上に顎を乗せて尻尾を振っているユキにしがみついていた。
「あら、じゃあそれほどおうちは遠くないのね。よかった」
「あの、なので歩いて帰れます」
「ノーブラノーパンで歩いて帰るっていうの?」
お茶と言った清田母だったが、彼女はお菓子やパンや煮物や揚げ物を次から次へとテーブルの上に並べている。とてもじゃないがそれに手を付ける勇気が出ないはがっくりと肩を落とした。ドライヤーをあてれば穿けると思ったパンツはまったく乾かず、ロングワンピースのボトム部分が透けないので已む無く穿いていない。
「だけど、わかるわあ。私も子供の頃からずっと犬と暮らしてるけど、慣れるものじゃないのよね」
「私、初めてだったので、わけがわからなくなっちゃって……」
「やっだ、涙出てきた。この子の前のコマって子がいい子でさ、信長なんかあの子に育てられたみたいなもんで」
清田母は思い出し泣きで目を潤ませると、キッチンとリビングの間にあるチェストを指さす。大きなファックスが乗っているが、その周りは犬の写真で埋め尽くされている。
「ていうか高校湘北で中学も違うんでしょ? 彼女でもないって言うし」
「ちょっと説明が長くなるんですが……」
は、簡単に富中出身であることと、流川の件を説明する。
「なるほど、流川くん。なるほどねえ、あの子モテるからねえ」
「ご存知なんですか」
「中学の間はしょっちゅう見に行ってたからね」
ついでに先日の桜木の件もざっくりと言い添えたに、清田母はうんうんと何度も大きく頷いた。
「高校入ってからはあんまり事情がわからないんだけど、決勝リーグだけは見に行ったのよね。覚えてるわよ、桜木くん。あの真っ赤な頭した子でしょう」
ある程度説明しなければならないことを言い終えたので、はやたらと豪奢なグラスに入った麦茶に口をつけた。思っていたより喉が渇いていて、一気に飲んでしまった。そういえば海水も飲んだ。
「……あのトロフィーや賞状って清田くんのですか」
「半分くらいはそう。市内のロードレースとかそんなのも混じってるけどね。半分はお兄ちゃんたちのよ」
「やっぱりバスケやってたんですか」
「ううん、一番上は剣道、二番目は弓道」
清田だけずいぶん毛色が違う。は少し首を傾げながらトロフィーと賞状を見上げる。
「ちゃんは何か部活とかやってないの?」
「今はやってません。中学の時も特には」
「でも中学って全員参加でしょう」
「幽霊部員だらけの英会話部に入ったんですが、サボりすぎて生徒会に入らされちゃって」
そしてそのまま3年間生徒会にいた。3年次は副会長だった。
「それがなんで湘北に入ったのよ」
「そ、その、近かったからです」
「変な子ねえ!」
清田母は煮物を指でつまみ上げると口に放り込んで笑った。それにしても、いつになったら帰れるのだろうかとが不安になっていると、突然ユキが飛び上がって激しく吠え出した。ヨダレが飛ぶ。
「ど、どしたのユキ」
「お父さんが帰ってきたのよ。わかるのよね~ユキ~」
が首輪から手を離すと、ユキは玄関の方へとすっ飛んでいった。また騒がしい音がしてドアが開き、清田父の野太い声が響いてくる。強面の清田父だが、動物好きの性とでも言おうか、赤ちゃん言葉になっている。
「やー、うちのきかん坊が悪かったなあ。何ちゃんだっけ」
「ちゃん」
「おおそうだ。で、なんだったんだっけ?」
ユキに纏わりつかれながら清田父はどっかりとソファーに腰を下ろす。どうしたものかときょろきょろしていただったが、清田母が何も言わないので、また同じ話を繰り返した。そして清田母同様、子供の頃から犬と縁が切れたことがない清田父も目を潤ませて大きく頷いた。
「そりゃあつらいよなあ。こいつの2代前のマサってのが死んだ時は、親父が死んだ時より悲しかったもんだよ」
どうやら父の方はマサに、母の方はコマに思い入れがあるらしい。そして、清田はお祖父ちゃんをひとり亡くしているのだとは気付いた。まだ両の祖父母が健在のは少しドキリとする。はまだ血の繋がった家族と死に別れた経験がない。愛犬を失った今、それはとても怖いことのように思えた。
だが、そんな感傷に浸っている余裕はなかった。同じ犬飼い同士、と清田の両親は妙に盛り上がってしまい、犬の話で延々喋り続けた。緊張していたもすっかり打ち解けて、テーブルの上のお菓子を食べられるまでになった。そこへ先ほどの清田の兄だという金髪の美形がやって来た。
「あれ、まだいたの」
「あっ、そーよ。ちゃん送ってってよ尊。お母さんカキさん待たないといけないのよ」
清田の兄があんまりかっこいいので、は途端に黙る。しかしそこではたと気付いた。さっき清田母は「お兄ちゃんたち」と言っていなかったか。そして「1番上」と「2番目」とも。このきれいなお兄さんはどっちなんだろう。はちらりちらりと彼を見上げてはまた視線をお菓子に戻していた。
それはともかく、送って行ってもらえるのはありがたいが、ノーブラノーパンでこの美形のお兄さんと車内でふたりきりにならなければならないと思うと、血の気が引く。食べたばかりのお菓子を戻しそうだ。
「お父さんでもいいけど、お父さんじゃちゃん怖いでしょ」
「そっ、そんなことは!」
むしろこんなきれいなお兄さんの方が緊張してしまう――とは言えない。が慌てて否定したので、清田父は喜んでいる。ユキもまたのところにやって来ると、膝に顎を乗せて上目遣いで尻尾を振った。
できれば清田母に送って行って欲しかっただが、生憎母は誰だかを家で待たなければならないらしく、結局清田の兄がを送ることになった。この兄と車内でふたりきりというのは怖いけれど、清田父母はもう怖くない。というかかなり楽しかった。犬好き同士、通じ合うものも多かった。
「ちゃん、また遊びにおいで」
「あ、あの、このワンピースを返しにきます」
「そんなのいつでもいいわよ。またユキと遊びにおいで」
清田父のでっかい手に頭を撫でられ、清田母のでっかい宝石付き指輪の手に肩を擦られたは、ちょっと嬉しくなって笑顔で頷いた。
「そうよ、来週ちょうどうちでバーベキューするの! その時いらっしゃいよ」
「おお、そうだそうだ。人数多いから遠慮しないで手ぶらでおいで」
「駅から連絡くれたら迎えに行ってあげるわよ」
突然の申し出に目を白黒させているの手に、粗品のタオルが押し付けられた。確かに電話番号が印字されている。はおかしくなって頬を緩めた。言い方は悪いが、こんな「雑」な家庭の中に入るのは初めてで、何もかもに驚いた。けれど、緊張したのは最初だけ。今はこの家が好きになり始めていた。
この時の中に「清田くんの家」という意識はなかった。強いて言えば、ユキの家だ。
「じゃあまたね、気を付けて帰るのよ」
「来週、待ってるぞ」
来るとは言っていないのに、ふたりはすっかりその気だ。は何度もペコペコと頭を下げ、ユキとの別れを惜しみつつ、門の前に横付けされたタウンカーに乗り込んだ。コンパクトで真っ黄色なハイブリットカーに美形のお兄さんが似合わない。おそらく清田母用の車だ。
「さて、おうちはどこですか」
「えっ、駅までで大丈夫です」
「ワンピース一枚で電車乗るの?」
きょとんとした顔のお兄さんがさらりとそんなことを言うので、は竦み上がった。濡れてしまった服が入ったビニールバックをぎゅっと抱き締め、恥ずかしさで真っ赤になりながら俯くと、ぼそりと自宅近くの国道を呟いた。
「りょーかい。じゃ行きましょうか」
真っ赤になっているだったが、清田の兄は飄々と無表情で車を発進させた。