手まねくカナロア

1

5年前の8月、この日は朝から気温がぐんぐん上昇して暑い日だった。蝉の声がやかましく、お盆休みシーズンの週半ばで人も車も少なく、ただひたすら強い日差しがギラギラと照りつける朝だった。

朝5時半に起床したは、かねてより考えていた通り、朝食はいらないからユキと走りに行きたいと言って清田を揺り起こした。清田家では朝食は朝6時と決まっているが、まあその時間に食べ損ねても後で食べてはならないというわけじゃない。のんびり寝坊する気だった清田は首を傾げながら起きた。

この日を最後には清田家から離れ、明日には母親の故郷である遠い街へ引っ越すことになっていた。

翌日の朝の新幹線で神奈川を発つ。そのため、連日清田家で過ごしていたはこの日に自宅へ帰り、母親とともに一晩過ごして、そして引っ越すことになっていた。なので清田は、夕食を食べてから送っていくくらいなのだと考えていたのだが、はそのつもりではなかったらしい。

というかそれを見越して昨夜はしつこくを求めたというのに、彼女はやたらと元気で、早くも着替えを済ませて清田の手を引っ張っている。なんで今から走りに行かなきゃならねーんだ?

「散歩ならまだ焦って行かなくても別に……
「小母さんには話してあるから、大丈夫」
「いやあいつ関係ねえだろよ」
「いいからいいから」

わざと力を抜いてしなだれかかる清田の背中をはパタパタと叩く。ほらほら、さっさと着替えて。

「てか散歩ならオレらが行かなくても他に誰か――
「余計なこと言わないでさっさと着替えて」
「いや話見えねえから! なんなんだよ」

ベッドから引きずり出された清田は渋々服を着ると、大あくびで髪をかき回した。するとこちらも髪を整え日焼け止めを塗ったは清田から少し離れて仁王立ちになった。目がつり上がっていて真剣な表情だ。

「のんびり過ごして未練を残しながら別れたら、私正気を保てる自信がない」
……はい?」
「もう覚悟したの。ピーピー泣いて傷を広げるようなことしたくない」
……それが何で散歩?」
「私、あんたと違ってたくさん走るのには慣れてないから、死ぬほど走って何もかもどうでもよくなって帰りたい」
「お前たまにとんでもねえこと思いつくよな~」

まだ今日1日猶予があるものだとばかり思っていた清田は、寝起きで突拍子もないことを言われたのでポカンとしている。しかしはお構いなし。清田を置いて部屋を出ると、階下へ降りていく。すると、待ち構えていたように清田の母親、由香里が顔を出した。

「おはよ、ちゃん。やっぱり走るの?」
「おはよーございます! はい、そうします」
「そう。じゃあ食べない方がいいわね。水分だけはきちんと補給するのよ」

前日に話を聞かされていた由香里は少しだけ寂しそうな顔をしつつ、優しい笑顔でそう言っての肩を押した。はまた真剣な表情でバスルームに飛び込み、歯を磨いた。その後ろからノロノロと入ってきた清田は、ユキにどつかれながらまた大あくびだ。

にも飛びつきたいユキを締め出した清田は、彼女を後ろから抱き締める。

「走り慣れないのにいきなりそんなこと――
「信長、やめてくれる」
「えー」
「今日はもう触んな」

勢いよくシャカシャカやっているは清田の手を払いのけると、その場で屈伸運動を始める。本気だ。

「ほらほら、あんたもさっさと磨いて」
「もー、最後の日だっていうのに触るなとか」
「そういうこと言うんじゃない。あとそーいうのは昨日の晩で終わり」
「足んない」
「知らん」

モソモソと歯を磨き髭を剃る清田を置いて、はバスルームを出る。途端にユキに飛びつかれたけれど、力任せにわしゃわしゃと撫でると、頬を叩きつつダイニングに入っていく。休みでもなんでも朝食は6時の清田家、そこにはおばあちゃんを除く全員が揃っていた。

「おはよーございます!」
「おう、おはよう。走ってくるんだって?」
「はい、行ってきます」
ちゃんおはよう、水分ちゃんと取るんだよ」
「はい! なので貰いに来ました」
「好きなの持っていきなさい。冷蔵庫入ってるから」

清田の父・新九郎と、長兄・頼朝にも挨拶をしたは、スタスタとキッチンに入っていって、トーストを作っていた次兄・尊にも声をかけた。

「おはよーございます!」
「おはよ~。食べなくて平気?」
「食べたら戻しちゃうと思うから、水分だけにします」
「まあそうだよね、あとで食べればいいんだから」

は遠慮なく冷蔵庫を開けてスポーツドリンクを取り出すと、その場でゴクゴクと飲み込む。すると支度が出来たらしい清田がまた大あくびでダイニングへ入ってきたので、もう1本スポドリを取り出したは、清田に渡してくるりと振り返る。

「じゃ、行ってきます! 小母さん、帰ってきたらお願いします!」
「はい、行ってらっしゃい。いつでもいいわよ」
「車に気をつけていっておいで」
「走り慣れないんだから、怪我にも気をつけるんだよ」
「はい!」

あまりにも、よそよそしかった。しかし、が昨夜、「別れるのがつらすぎるから、名残を惜しんで時間を過ごしたくない」と由香里に直訴していたのを新九郎も頼朝も聞いていた。その気持ちは痛いほどわかるから、のために付き合ってあげたい。

そしてはのんびりスポドリを飲んでいる清田を引っ張ると、玄関でユキにリードを付け、昨日持ち込んでおいたスニーカーをしっかりと履く。もう清田家にあるものは、簡単な手荷物だけだ。自宅にある生活に必要なものも既に引越し先へと送り出してある。

すっかり支度が整い、逸るユキと玄関に佇むに、まだボンヤリしていた清田は無断で強引にキスをした。

「そっ、そういうことやめ――
「うるせーなお前は細かいことあれこれと。チューぐらいさせろっつーんだよバカ」
「昨日散々したでしょうが!」
「いくらやったって関係ねーわ!」

しかし清田はそう言いつつ玄関を出ると、軽くジャンプをしてを見下ろした。真剣な表情だ。

「おーし、そこまで言うなら走るけど、オレは毎日合わせて数キロは走ってるし、ノロノロはやらねーぞ」
「あんたのダッシュにはついていけないけど、ノロノロはいらないよ」
「言ったな。よし、んじゃウサギ公園で休憩、そこで折り返しな」
「オッケー、よろしく!」
「おら、ユキ走るぞ! ちゃんと引っ張っていけよ!」

清田の号令にユキは飛び上がって走り出した。現在3歳の大型犬、しかもオス、はつんのめるようにして走り出した。ひと気のない住宅街、ふたりは真夏の風を切って走って行った。

との別れがつらいのは清田家も同じで、ふたりが走りに行ってしまうと、由香里は早速涙ぐみ始めた。それを見ていた新九郎もつられて鼻をグズグズいわせていたし、頼朝は朝食が済むと自室へ戻ってしまった。いつでも騒がしい清田家だが、今日はしんみりした空気が漂っていた。

だが、1時間ほどしてふたりが戻ると、また一気に騒がしくなった。がほぼ死んでいる。

「ちょっ、やっぱりそんな無理して! 熱中症じゃないでしょうね!?」
「途中でスポドリ買い足して全部飲みきったし日陰で休憩もしたから大丈夫だろ」
「てか一体何キロ走ったのよ!?」
「いや距離はわかんねーよ! ウサギ公園から公民館回って帰ってきただけだって!」
「いきなりそんな距離走ったの!? バカじゃないの!?」
「オレに言うなよ!」

ギャンギャン言い合いをする清田と由香里をよそに、はずりずりと這いつくばってバスルームに消えた。水分補給は出来ているので、シャワーでクールダウンさせたら着替えて帰る。余計な時間は挟まない。まともに立てないほど走ってしまったので、四つん這いで風呂に入り、水を浴びる。

「あんたも入るの!?」
「のんびりしたくねーんだと。いいよ着替えただけで」
「そんなに汗かいて何言ってんのよ! 絞ったタオルで全部拭きなさい!!!」
「わかったから怒鳴るな!!!」

が風呂で吐きそうになりつつ吐くものがないのでぜいぜい言いながらシャワーを済ませると、由香里はすっかり出かける支度を整えて待っていた。の手荷物は車の中、清田も着替え終わって玄関で待っている。つらいのは誰も同じ。余計な感傷は挟むまい。

「吐きそう……
「だろうな」
「これどうやったらなおるの……
「帰ったら寝てれば?」

ヨロヨロのは、リビングにいるであろう新九郎たちに声をかけることなく、玄関を出た。これでいい。わざわざ挨拶をして大泣きのお別れセレモニーをやりたいわけじゃない。永遠の別れにしたくないから選んだ道なのだ。だから、玄関を出たところで振り返りもせずに叫んだ。

「おじゃましました! ……行ってきます!!!」

その時のリビングでは新九郎が男泣きだったそうだが、叫んだ直後に嘔吐いて「オェェ」とよろけたので、も清田も笑いながら玄関を離れた。コンパクトで真っ黄色な由香里のハイブリッドカーの後部座席に乗り込んだがまた嘔吐いたところで車は走り出した。

「確かちゃん運動部だったことないんじゃなかった?」
「ないれす……
「運動部どころか普段から運動の習慣がないだろお前」
「それでいきなり公民館まで回るってバカなことしたわねほんとにもー!」
「いや一応ウサギ公園で折り返しってことで走り出したのにこいつが」
「それで充分だったでしょうが!」

グロッキー状態のは「ウェッ」と言うだけで答えない。が、仕方あるまい。ウサギの遊具があるのでウサギ公園と呼ばれている公園は誰もいなくて、新しいスポドリを飲みつつ木陰で息を整えていたにまた清田は勝手にキスをしてきた。それもだいぶしつこく。

そういうのを振り切りたくて走ろうと決めたのにふざけんな! とは清田を置いて走り出し、こちらも水分補給してまた元気の出たユキがはしゃいで走っていくのに任せて公民館まで行ってしまった。

「だいたい信長は小学生の頃から1日数キロ走るような生活してたのよ?」
「それ言った」
「足は大丈夫なんでしょうね? 明日歩けなかったらどうするの」
「今んとこ大丈夫そうだけど。お前じゃねえし若いから平気だろ」
「親をお前とか言うんじゃないって何度言ったらわかるのこのバカタレ」

高校2年生の信長くんは彼女の前で母親をなんと呼んだらかっこ悪くないかと考えた挙句、いい考えが思い浮かばなかったらしい。由香里の指輪が嵌ったビンタが飛んできて清田の額に直撃する。彼女の方は気持ち悪いのであまり聞いていない。

清田の家からの自宅までは普段なら40分ほどかかる。だが、お盆休みシーズンで車が少ないこともあり、30分もかからずに到着してしまった。売却が決まっている築20年の家はすっかり片付けられて、玄関周りも閑散としている。表札もない。

清田がを抱えて車から降ろしている間に、由香里はインターホンを鳴らしての母親を呼び出す。

「もー、ユキの散歩で走りすぎてゲロゲロなのよ。ごめんなさいね、止められなくて」
「あ、あら、そうなんですか? なんでまたそんなこと……すみませんでしたわざわざ送って頂いて」
「いいのよ、うちも今お盆休みだし。ちょっともー、大丈夫!?」

ただいまーと力なく言いつつ、は玄関に運び込まれた。上がり框にどさりと腰を下ろしたの頬に清田がそっとキスをしたのだが、「オェェ」と返される始末。

「バカかお前はほんとに」
「うるさい、今生の別れじゃないんだから、いつまでもウジウジするな、オェェ」
……じゃあな」
……またね」

挨拶の応酬をしていた由香里との母の横を通り過ぎた清田は、ちょこんと頭を下げると、母親に「行くぞ」とだけ言ってさっさと車に乗り込んだ。由香里も適当に切り上げ、に手を振ってタウンカーに乗り込んだ。は見送りに出ない。車はそのままそっと走り去った。

「明日出発だっていうのに、何やってるの。足は傷めてないでしょうね?」
……平気。ちょっと寝る」
「お昼は? もうキッチン使えないから買ってくるか食べに行くか」
「どっちでもお母さんの好きな方でいいよ」

のろのろと立ち上がったは、背中を撫でる母の顔も見ずに階段に足をかける。

「しっかりしなさいよ、もう。こんな最後まで他所様の家にへばりついて」
「うん」
「いつまでも清田さんちにしがみついて生きていくわけにいかないんだからね」
……うん」
「ちゃんと前向いて、気持ち切り替えて、明日から新しい場所で生きていくんだからね」

母親の小言を背に、は息を飲み込み、腹に力を入れた。

私は帰ってくる。神奈川に、信長のところに絶対帰ってくる。私の生きる場所は、お母さんの隣じゃない。

真っ黄色のタウンカーはいま来た道を戻っていく。まだ挨拶は「おはようございます」の時間だが、既にギラギラと照りつける太陽が真っ黄色に反射して眩しい。車内はエアコンを最大出力でかけているので、ちょっとうるさい。そのエアコンのうるさい音の中で、清田は派手な音を立てて洟をすすった。

……ちょっと遠回りして帰ろうか。ドライブスルーで冷たいの、飲む?」

助手席で体を丸め、膝を立てて顔をうずめている清田は、由香里の声に頷き、声もなく泣いていた。

「私も昨日の夜、聞いたよ。今日こうやって帰りたいっていうのと一緒に、小母さんにだけ聞いてほしいことがあるって言われて、絶対帰ってくるって、5年後、社会人になる時は神奈川に戻ってくるって」

昨夜は大宴会だった。今夜が最後だと思うと耐えられない新九郎を始め、ぶーちんやだぁもやって来て早い時間から飲み食いし、そしてと清田を気遣ってか、新九郎と頼朝は早めに潰れ、尊はどこかへ出かけていた。なので由香里はとふたりで宴会の後片付けをしていた。そのキッチンで言われたらしい。

「うちはさ、人の出入りも多いし、頼朝とあんたはそうでもないけど、尊がよく女の子連れてきてたし、ちゃんもそういう中のひとりって感じだったのにさ、不思議ね、こんなこと言ったらちゃんのお母さんに失礼だけど、まるで自分の娘みたいに思う時があるのよ」

由香里はウィンカーを出して、通常の帰宅ルートを離れる。少し行けばドライブスルーのあるファストフード店があるはずだ。清田も走っていたので朝食はまだだし、しかし家族たちは全員済んでいるし、ついでに本日午前中は由香里も特に用がなかった。午後からは約束があるが、少しくらい息子に付き合う時間はある。

「笑っちゃうわよね、あの子、もし遠距離に負けて信長とうまく行かなくなったら、養女にしてって言うのよ。うちが、清田の家が好きなんですって。変な子よね。だけど私、即答しちゃったわよ。もちろんよ! って」

前方にファストフード店の看板が見えてきたので、由香里はまたウィンカーを出して速度を上げる。この由香里さん、清田家で1番運転が荒い。幸いドライブスルーに先客はおらず、由香里は三男が好きなメニューを勝手にオーダーする。成長期で運動部員、三男はよく食べる。

「泣いてても食べられるわね?」

頷く清田に紙袋を押し付けると、自分ではアイスコーヒーを啜りつつ、また走り出す。

ちゃん、戦ってくるって、言ってたけど、あんたはどうするの」
…………待ってる」
「一度も会えないわけじゃないだろうけど、それでも5年だよ。生半可な気持ちじゃ――
以外の女なんかいらない」

清田は俯いたまま紙袋に手を突っ込み、ジュースを引っ掴むと勢い良く吸い込む。そして咳き込み、手の甲でぐいぐいと目元を擦り上げた。擦り上げても、ファストフードの紙袋にボタボタと涙がこぼれ落ちる。

「それを否定はしないけど、5年間を耐えるのには、覚悟がいるわよ」
「そんなことわかってる」

吐き捨てるように言いながら、清田の声は涙で揺らいでいく。

「それでも待つって決めたんだよ。約束したんだ。離れたくなかったけど、引っ越しなんかしようって決めたあいつの親のこと恨んだけど、それでもあいつがいつか戻ってくるって言うから、あいつが覚悟決めたから、こんなつまんねー家とオレのところに帰るために5年間戦ってくるって、言うから、オレも、一緒に、戦いたいから」

嗚咽とともに、またボタボタと涙がこぼれ落ちる。由香里は手を伸ばして息子の頭を撫でた。

ちゃんのこと、心から好きなのね?」
……そうだよ、好きだよ、悪いか」

由香里は静かに深く息を吸い込むと、声を落とした。

「だったら耐えてみせなさい。あれだけの覚悟を決めたあの子に相応しい男になれるように、あんたも戦いなさい。あんたが、信長がそういう覚悟でいる限り、お母さんたちも一緒戦うから」

清田はがくりと頭を落として頷くと、堪えきれずに嗚咽を漏らした。

……母さん、帰るまでだから、ごめん」
「いいって、そんなこと」
「親父とか、誰にも、言わないで」
「言わないわよ」
「こんなの、今日だけ、だから、もうこんなこと、ないから」

言いながら泣きながら、清田はハンバーガーを取り出してかじりつく。腹が減っては戦はできぬから。由香里は相好を崩し、ふん、と鼻で笑うとアイスコーヒーを啜り、また三男の頭を撫で、そのぼさぼさの髪をぐしゃぐしゃにかき回した。彼女にも、戦う理由があるのだ。

「私たちも、あの子のこと、好きなのよ。だから負けないわよ」