星霜フラグメント Plus&Minus

01

+ 30min.

いつかのようにびしょ濡れで帰ってきたと清田を最初に出迎えたのは、庭に出してもらっていた三柴であった。が彼らと会うのはこれが2度目だが、何しろ先住犬のユキがビッタリ貼り付いて、子分たちが粗相をしないように目を光らせている。三柴は尻尾を振り、お客様いらっしゃいませ状態である。

「おーい、お袋ー! ばーちゃーん! 親父もいるかー!?」
「そんな急がなくていいよ、お盆でまた忙しいんじゃないの」
「まあまだ時間早いから。頼朝と尊もいねえしな」

清田が玄関で大声を出すので、しばらくするとまたカリカリした声の清田母・由香里がやって来た。真夏なので彼女はラメが眩しいワンピース姿だ。それを追いかけるようにして清田父・斎藤道三ならぬ、新九郎も出てきた。

「またなんかやったの、いい年してあんた――キャアアア!」
「おい母さんなんだそんな悲鳴上げ――うおおおおおお!」

ふたりの悲鳴に三柴が興奮して走りだす。ニヤニヤと唇を歪めている清田の前をふたりは駆け抜け、びしょ濡れのに飛びついた。こちらも再会はほぼ1年ぶり。も歓声を上げてふたりを受け止める。

「どうしたんだよ急に、しかもまたこんな海でびちょびちょになって来て!」
「来るなら連絡くらいちょうだいよ、心臓止まるかと思ったじゃない」
「ごめんなさい~、小父さん、小母さん、私内定もらった、こっちに帰ってきます」
「ほんとか!!」

新九郎はいつかのようにを抱き上げて一回転。

「おーい、とりあえずに着替え貸してやってくれ。日帰りするつもりだったらしくてさ」
「あらやだ、日帰り!? 何か急ぎの用でもあるの?」
「いやそういうわけじゃないんだけど、ええと、中で話します」
「なんだよまたなんか問題かよ」

言いつつ、新九郎は豪快に笑った。由香里は玄関に飛び込み、服を探してくるという。

、シャワー使うだろ」
「私あとでいいよ、先使って」
「何をガキみてぇなこと言ってんだ、一緒に入ってくりゃいいじゃねえか! 広いんだし!」

清田家の風呂は三兄弟がまだ中学生小学生幼稚園児だったころに作られたものである。なので、父と4人で入っても大丈夫な大きさ、というのを前提に設計されている。つまり、デカい。確かにふたりで楽に入れる大きさではあるが――清田は肩でため息を付き、は苦笑いだ。

「あのな親父、自分の胸に手を当ててよーく考えてみろ。1年振りだぞ」
…………すまんかった。さっさと入って来い」

新九郎がお尻を突き出し、力士が懸賞金を受け取るときのように手刀を切りながら謝るので、はけたけたと笑った。寛容でオープンなのはいいけれど、確かに清田の言うように、1年振りなのである。仲良く海水流しておいでで済ませろという方が酷だ。

「それにしても、本当に帰ってくるんだな。よく挫けなかったもんだ」
「私、夢がなかったでしょ。だけど、ここに戻ってくるのが夢になったの。だから、意外と楽しかったかも」
「向こうでの生活が、か?」
「そう、私が頑張れば頑張るだけ、ここに戻ることが現実になるんだって、そんな気がして」

は、纏わりつく三柴を撫でながらにっこりと笑った。

「つまんない夢って何度も言われたよ。だけど、私の夢は絶対実現できる夢で、しかもどんな努力も無駄にならなくて、全部今に繋がってるの。だから、大変だったけど、ゴールが見えたからものすごい達成感、あるよ」

は母親の郷里に引っ越してから、「戦う人」になった。

- 5 years.

「どうだった、新しい高校」
「うん、なんかすごく普通な感じ。湘北みたいにヤンキーもいるし、真面目な子もいるし」
「それ普通か?」

が神奈川から越して約1ヶ月、一応別れたふたりだが、連絡は変わらずに取り合っている。だけどそれも頻繁ではないし、電話で話すのは地元で別れて以来のことだった。少なくともと清田は、夏の間の数日にかなり覚悟が決まっていたので、久々に電話で話していても、まるで近くにいた頃と変わらない。

「制服はもう新しくなったのか」
「一応半分は過ぎてるんだし、このままじゃダメですかって交渉したんだけどね」

紺のブレザーにプリーツスカートくらいなら対応のしようもあったけれど、何しろ湘北の女子の制服は少し変わったデザインをしていたし、残り数ヶ月くらいならともかく、と結局買わされる羽目になった。父親を亡くして経済的にあまり余裕がないことも訴えたけれど、ダメだった。

「恐ろしい金額だった」
「学ランとかならなあ。うちも普通のブレザーだし」
「うん、男子は学ランだった」
「湘北の制服じゃ、目立っただろ」
「あははー、目立ったよ」

乾いたの笑い声に、清田はため息をつく。

「転校早々何かやらかしたのか」
「私が問題児みたいな言い方しないでくれる。桜木じゃあるまいし」
「問題児みてえなもんだろうが。湘北はほんとに」

今年も国体が選抜で、現在その合同練習の最中である清田は余計に呆れる。

転校先も真面目な生徒とヤンキーがまっぷたつに割れているような高校で、は違和感を感じなかった。そして転校初日、目立つ制服のは、クラスの中でもこれまた目立つ感じのギャルっぽい女の子たちに囲まれた。さっそく質問攻めに遭い、がどこに属する「人種」なのか、確認されているような感じだった。

だからといって、その後すぐにいじめられたりだとか、そんなことはなかった。住む地域は違っても、何も変わらないと思っていた。が、その油断がマズかった。数日して、一緒に地元の駅に遊びに行こうというので、は案内してもらうことになった。ついでに地元の求人誌が欲しかったし、時給のリサーチもしたかった。

その道中のことだ。暑いから何か飲みたいとリーダー格の子が言うので、は頷きながらシアトル系カフェのフローズンドリンクが飲みたい、と言った。それがお気に召さなかったらしい。

……は? その辺りってカフェないの?」
「あるよ。てかお茶飲むところで言ったらうちの、あ、前のうちね、の近所より多い」
「だったらなんでそれがダメなんだ」
「この辺りだと3つ先の大きな駅にしかなかったんだ、そのカフェ」

神奈川から来たとは言ったが、横浜みなとみらいから来たとは言ってないし、一応の出身は湘南地区にあたるが、それは絶対に漏らさないことにしていた。だから、都会人の嫌味になどならないはずだった。それでも、リーダー格の女の子は、そう受け取ってしまった。あとは芋蔓式。

「あとでグループの中の子が連絡くれて、特にそういうのに敏感な子だったみたいで」
「被害とかないのか」
「もちろん。その子に遠慮して女の子が近寄ってこないだけ」
「お前な……
「ま、来年にはクラス変わるわけだし」

は鼻で笑う。

「てかこんなの序の口ですよ、信長くん」
「なんか楽しそうだなお前」
「それから少しして、早速初対面の男子に告られた」
……付き合ってんの?」
「勘弁してよ。余所者だからちょっかい出したくなったんでしょ」

茶髪に真っ黒に焼けた肌、ぶーちんを思い出させるココナッツ臭のその男子は、いわく、神奈川生まれなのだという。それで告白してきたというのは意味がわからないけれど、はつい嬉しくなって、どのあたりなの、と聞いてみた。

「ほぼ山梨だった」
「反対側じゃねえか」
「あるある話でも出来るかと思ったんだけど、つい、私は海の方だからな~、って」
「言っちゃったわけね」

適当に誤魔化しておけばよかったのに、つい市名を言ってしまった。というわけで湘南地区であることもバレた。

「一応地味な感じの子は普通に接してくれるんだけど、どこもやさぐれてるのは面倒臭いね」
「まあ、水戸みたいなのがちょっとオカシイんであって、それが普通なのかもな」

しかし、はここは環境が最高だという。

「変に仲良くなると時間取られるし、ちょうどよかった。バイトも決まったし、そうそう、去年出来たばっかりらしいんだけど、歩いてすぐのところに大きいショッピングモールがあってさ、それが超助かってる。無料バスがバンバン出てて、バイトの行き帰りとかこっそり乗れちゃうんだよね」

残り半分の高校生活は全てバイトと勉強に費やすと、固く心に決めているである。そのための環境としては最高ということだ。今もショッピングモールの敷地内の公園で喋っている。最終的な閉店が23時なので、それまでは明るいし、人も多い。家では話しづらいから、そういう意味でもここはありがたい。

「時間が遅くなるとイートインスペースがかなり空くんだよね。だから最近はそこで勉強したりもして。まだちょっと慣れないから、家は落ち着かなくてさ。自分の部屋もないし」

の母親が育った家は、現在祖父母が慎ましく暮らしているが、古い上に小さい。と母親は今のところ同じ部屋に寝起きしていて、なおかつ母親が慣れない仕事で疲れているので、が外に出るようにしている。ショッピングモールなら目と鼻の先なので、祖父母も心配しない。

「勉強、詰まったら遠慮なく頼朝に聞けよ。夜中でも叩き起こせ」
「ああ、お兄ちゃんね」
「いやほんとそれ鳥肌なんだけど。気持ち悪かったらお兄ちゃんなんて呼ばなくていいんだからな」

母親に喧嘩腰で大学進学を約束させただったが、正直、たっぷり予備校に通わせてもらえるとは思えなかったし、奨学金なしで私大に通うのも難しいと考えていた。それなら国公立がいいのだろうが、条件は非常に厳しい。今のところは、この母親の実家から通える公立を狙っている。とりあえず近い。

さらに、返還義務のない「給付型」の奨学金制度を持つ民間団体で、条件に当てはまりそうなところには片っ端から応募することに決めた。一応生活費はなんとかなるのだから、学費だけカバーできればいい。

「だから、本当に夜中に叩き起こすことになるかも」
「無理すんなよ。また体壊したら全部無駄になるんだからな」
「それはもう、ほんとちゃんと考えてる。なんかお母さんお酒飲み始めちゃったけど、反面教師になるよ」
「おいおい、小母さんほんとにメンタル弱えーな」

まあ、ぶーちんや清田家が強いだけ、とも言える。

「だからお祖父ちゃんもお祖母ちゃんもすごくお母さんのこと気遣ってて、私にまで手が回らないみたいでさ」
「いやお前さらっと言うけど……
「だからいいんじゃん。なんか戦闘準備整ったって感じ」

の言葉に清田は吹き出す。

「余計な誘惑がないのが逆にいいよ。集中できる」
「もうさんざん誘惑されてきたしな」
「そういうこと言わない!」

ふたりはけたけたと笑い合い、そして言葉にはせずとも遠い空の下にいる相手を思って胸を痛めた。

その1ヶ月後、は中間テストで1位を取った。

+ 1h 15min.

清田の後にシャワーを使い、いつかのように由香里のワンピースを借りたは、久々の清田家リビングでホッとため息をついた。もういつでもここに来られる生活に戻れるのだと思うと、幸せでいっぱいになる。膝にはユキ、隣には清田、そして三柴のうち1番甘えん坊のナオが擦り寄ってくる。

テーブルの上にはやはりお菓子だのパンだの漬物だの惣菜だのが並んでいて、それも嬉しくなる。現在は祖父母と暮らしているので、食生活は実に地味だ。健康的でいいのだろうが、そればかり続けば飽きてくる。たまにジャンクなものが食べたくなるとフラフラとショッピングモールに入ってしまうので、はそれとも戦っていた。

「それで? なんかすぐ帰らなきゃならんような事情があるのか」
「それがね、私が本当にこっちへ戻ると思ってなかったみたいで、お母さんがずっと機嫌悪いの」

が大学3年の春に、の母親は再婚した。本人曰く、中学生の頃に「おままごとみたいな」付き合いを少ししただけの、初恋の相手だった。その後、高校へ進んで自然消滅したらしいが、遠い日の火種に風が吹き、燃え上がってしまったというわけだ。独身同士、鎮火させる理由もなかった。

夫を亡くすという悲劇に見舞われたけれど、地元に帰り、家族はすぐ近くにいて、その上初恋の相手と再会、そして結婚。の母親はすっかり元気を取り戻し、毎日を活き活きと過ごし始めた。それはいい。だが、娘が本気で故郷である神奈川と清田家に未練を残しているとは思っていなかったらしい。

が神奈川で就活をしてくると言って出かけていった時も、なんだか困ったような怒っているような顔をしていた。さらにが内定を勝ち取ったと知ると、自分の家族を捨てるのかと難癖をつけてきた。

「お母さん、寂しいんじゃないのかしら」
「もう1年以上別々に暮らしてるのに? 1ヶ月くらい会わないのも珍しくないんだよ」
「だから余計に引き止めるようなことを言っちゃうんじゃない?」

だとしても、の決意は固い。何を言われても「決まったことだから」と取り合わなかった。それがまた母親の心を頑なにしてしまった。親不孝をさせるために大学に行かせたわけじゃないと言い出したり、夏休みも遊んでるようなら来年までの生活費出さないわよ、と脅しのようなことも言い出した。

「それでもいいかと思ったんだけど、これ以上貯金を崩したくなくて……
「お祖父ちゃんたちも年金暮らしだったものね」
「なもんで、あんまり何泊もするとまた怒って生活費を切られるんじゃないかと」
「ふーん、困ったもんだな。新しいお父さんはなんて言ってるんだ」

新九郎が熊なら、義理の父は山羊。は以前そう言って清田を笑わせたことがあるが、本当に山羊のような印象があって、穏やかで優しい人ではある。

「特には。だって自分の子供がいるわけだし、私の少ない学費はお父さんの遺産から出てるんだし」
「だったら小母さんもあんまりとやかく言うのは違う気がするけど……
「ふたりで一緒に暮らしていればこその遺産だっていうのが本人の言い分」
「まあそれも間違いじゃねえだろうけどなあ、既に再婚しちゃってるんだし」

亡き父の遺産は妻と娘が幸せに暮らしていくためのお金である。しかし、にとっての幸せは、祖父母の近くで母と義理の父と妹と暮らし、やむを得ず越してきた街に骨を埋めることではない。の幸せは神奈川にあり、清田家にあり、それは覆らない。母にはそれが伝わらないし、認めたくないらしい。

「んもう、喉元過ぎるとこうも変わるものかしら!」

夫を亡くして精神状態が不安定になったの母親を、心を尽くして支えたのは由香里とぶーちんである。その上、家を売る時に協力してくれたのは新九郎。遺産を分けろと言いたげな父方の親戚に対抗すべく、法的な知識を持ってきてくれたのは頼朝。これでは確かにとんだ恩知らずである。は項垂れる。

「いや、お金の問題はさておき、それさえなかったら、かえって都合がいいんじゃないのか」
「えー? そうかあ?」
「だってそうだろ、がこっちへ戻っても、もうお袋さんはひとりじゃないんだから」
「もう何も失いたくないという気持ちもわかるけどね。子供の独立は応援してあげなきゃ」

というか新九郎と由香里は既にが嫁に来たような感覚でいる。恐らく、このふたりのこういう態度が手に取るようにわかるから、の母親は余計に臍を曲げてしまうのだ。は私の子供なのに、という母親の愛情が根底にあるのは間違いないのだが、少々手段を間違えている。

それにしても学生の夏休み、自分で働いた金で好きな人に会いに来るくらい、文句を言う方が心が狭い。

「海外に行ったきり夏休み中帰って来ないようなのより、よっぽどいいだろうになあ」
「私がちょっと電話してみようかしら。せっかく来たんだし、ノブがいる間くらい」
「そういうことならオレ延長してもいいし」

それでもまだは清田家に嫁入りしたわけでもなんでもなくて、由香里は少し出過ぎた真似をしようとしているし、本来ならばが自分でカタをつけてくるべき問題だ。だが、清田と一緒にいたかった。それこそ1年振りなのだし、やっと彼氏彼女に戻れたのだし、夏休み中ずっとなんて言わないから、少しだけでも。

は、子機を持ってきた由香里が電話番号を教えろと言うので、素直に教えた。