頼朝とウサコが「結婚」した翌年の1月、新九郎が家長になってからの清田家で3代目の飼い犬であるユキが天寿を全うした。小型中型に比べると短命であることが多い大型犬としては驚異の大往生、16歳の出来事だった。
遡ること2代前の「マサ」は新九郎が大層可愛がっており、亡くなった時は「親父が死んだ時より悲しい」と漏らしたほどだった。また信長も兄のように慕っていて、死というものがあまり理解できない年齢だった彼は、手がつけられないほどに暴れた。
一方、1代前の「コマ」は由香里が心から信頼していたパートナーで、忙しい彼女を助け、幼い信長の面倒をずっと見てくれた犬だった。コマが亡くなった時は由香里がかなり取り乱したので、信長が大人の嘆き悲しむ様に驚いて少しだけ心を閉ざした。
そしてユキ、彼の死はかつてないほどにを打ちのめした。
ユキは清田家の飼い犬だが、と信長の出会いの頃からその傍らにあって、またにはよく懐き、かつてはひとりで家に預けられてと同じベッドで眠ったこともある。に言わせれば、「最初の彼氏」であった。
また、の母親が夫の死のショックで体調を崩した際には、由香里に連れられてセラピー犬よろしく心を癒やす手伝いをしたものだった。
はそんなユキが老いていく様を毎日見て、世話を焼き、子育てで忙しい中でもユキに寄り添い続けていた。ユキの気分次第だが、たまには部屋に連れ帰って一緒に休むこともあった。彼女にとってユキは、自分と清田家を繋いでくれた絆だったのである。
その日、ユキはのんびりと朝の散歩を楽しみ、帰宅後は食事をし、お気に入りの定位置でゆっくりと眠ると、そのまま目覚めなかった。それに気付いたは無言で大量の涙を床にこぼしてその場にうずくまった。そして、ユキに覆いかぶさって抱き締め、しばらくその場を動かなかった。
平日の午前中、週末は仕事で不在のことが多い信長が在宅時のことだったので、いつも自分たちの傍らでその恋を見守ってくれていたユキの旅立ちに、ふたりは言葉もないままユキをずっと撫でていた。
この時、幼い信長同様、母親が声を上げて泣く姿を目の当たりにしたカズサは以後、理由が何であれ母親が泣くと怒るようになった。大人の、それも女性の涙は怖いもの、死と隣り合わせという記憶が彼に刻まれた。奇しくもそれは、彼の父親が幼い時に抱いたものと全く同じ「恐怖」であった。
ともあれ、こうしてユキは旅立っていった。そして彼の写真は、生涯のドレッサーに飾られることになる。この先も清田家には犬が絶えなかったけれど、ユキの写真だけはいつまでも一番目立つところに置いてあったという。
「マサの前は、シマ。マサも大きかったけど、こいつもでっかい犬でな」
「マサなんてもんじゃなかったわよ。だけど大人しくてね。おじいちゃんにしか心を開かなくて」
「名前の元ネタは?」
「島左近」
「誰だっけそれ」
「島左近も知らねえのか、情けねえなあ」
ユキが亡くなり、彼が清田家の菩提寺にあるペット共同墓地に葬られたその日、清田家では「犬を偲ぶ会」が催された。と言っても、犬のことを語りながら酒を飲み、彼らを偲ぼうじゃないか、というだけで、特別なことはなにもない。強いて言えば全員黒っぽい服を着ているくらいか。
リビングにはユキの祭壇が作られ、彼の写真の前には線香立てなどとともに、好物のおやつや首輪、リードが置かれていて、そこにも清酒が供えられていた。
が未だショックから立ち直れず静かにしているので、気が紛れれば、と頼朝が「清田家犬歴史」を新九郎に尋ねたところである。
「で、シマの前がフク。これはまあ、柴犬みたいなもんだ」
「フクは何が元ネタ?」
「春日局。メスだったから。こいつは子犬を産んだんだ。可愛かったんだぞ~」
「じーじ、オレも犬の赤ちゃんほしい」
「うちにはハルとクロとナオがいるからいいじゃないの」
「赤ちゃんがいいー」
最近幼稚園のお友達がトイプードルを飼い始めたので、カズサは最近「子犬ほしい」が口癖になっている。ユキを失ったばかりのがやるせない気持ちになるので、由香里はそれを宥めようとしているが、カズサの我の強さは近代清田家随一かもしれないというほどで、つまり言うことを聞かない。
というのも、清田家ではどれだけ小さくても柴犬などの中型しか飼ったことがなく、それこそシマなどは雑種ながら子牛のような巨大な犬で、現在清田家にいる犬たち、通称「三柴」もしばらくカズサより大きかった。そのせいで彼は「自分より小さい犬」に大層な憧れを抱いているのである。
またそのお友達の飼っているトイプードルが弟分のように懐いて後を着いてくるので、カズサは「大きくならない赤ちゃんの犬」が欲しいとしつこい。彼には妹と弟がいる状態だが、ふたりはお互いと遊ぶのが何より好きなので、あまり兄とは遊ばない。兄は子分が欲しい。
「で、そのフクの旦那がムサシ。もらいっ子だったんだけどフクと仲が良くてな」
「宮本武蔵?」
「それは元の飼い主が付けた名前だけどな。やっぱり柴っぽい中型で、こいつはいい男だったんだぞ」
このフクとムサシがちょうど新九郎が小学生の頃。古い時代のことなので、2匹とも10歳に届かずに亡くなった。子犬たちは近所で犬を欲しがった家に譲り渡されたけれど、3匹中2匹は脱走したまま戻らなかったという。
「その夫婦の前が、ハチ。オレの記憶はここからだな。これもでかい犬で」
「ハチ……ハチ公じゃないんだよね?」
「そんなわけなかろう。親父が付けたんだぞ」
「ですよね~」
やや呆れた声の尊が首を傾げる。ハチと言われるとハチ公しか出てこないが、そんなわけはない。
新九郎の戦国武将好きは自身の父親譲りである。というか、娯楽の少ない時代のこと、盲目的に尊敬しているお父ちゃんが枕元で話してくれるのは戦国武将の英雄譚ばかり。現代の子供が特撮ヒーローに夢中になるのと同じだった。なので清田家の犬はみんな戦国ネームなのである。
「はち……蜂須賀小六?」
「おお、いいところ来たな。しかし残念!」
頼朝が思いついて言ってみたが不正解。というかこの戦国ネームの伝統は新九郎が父親から受け継いだだけなのであり、その息子たちは特に興味がない。せいぜい学生の頃に学んだ範囲程度。最近とウサコが興味本位で大河ドラマを見始めたけれど、1年やそこらで網羅できるわけもない。
「降参か? よしよし、正解は、本多忠勝!」
「……ハチじゃないじゃん」
「チチチ、通称が『平八郎』なんだな、これが!」
「何で通称から取るんだよ」
「この頃の通称ってのは今のあだ名とは意味合いが違うんだ。そもそも本名のことは諱といって――」
信長がつい突っ込んだせいで、新九郎の戦国トークが始まってしまった。兄ふたりに冷たい目を向けられた三男はサッと顔をそらす。すいません私がやりました。
「じゃあそのハチから数えても、えーと……」
「ユキで7代目、あいつらで10匹目だ」
「そろそろ名前のネタも尽きたんじゃないの~」
「いやいや! オレが本当に好きなのは鎮西八郎っつってな、この人は平安末期の――」
今度は尊が白い目で見られた。今日は犬を偲ぶ会だっつってんだろ。
そんな偲ぶ会がまったりと行われているリビングの片隅では、三柴がそれぞれお気に入りの場所で横になって目を閉じている。黒柴のクロはダイニングテーブルの下、白柴のハルは納戸の前、そして赤柴のナオは甘えん坊なので、新九郎の足元。
ユキも驚異の大往生だったが、この三柴たちも推定で13歳になる。保護犬だった3匹はまとめて譲渡会に出され、それを新九郎が気に入って連れてきた。その時の推定年齢なので、それより若い、またはそれより年を取っている可能性もゼロではない。
昨今小型の長寿化がめざましく、10代後半もさして珍しくないわけだが、三柴はそろそろ起きているより寝ている時間の方が長くなり始めた。飼い始めた頃は三匹揃ってひっきりなしに庭を駆け回っていたけれど、それもごく稀になりつつある。
ソファにぐったりと寄りかかってハルを眺めていたは、また目に涙が滲んできて鼻をすすった。
「……3匹は推定同い年だっていうし、気になっちゃうよね」
「大きな病気や怪我はないけど……こればっかりは、ね」
そのを両側から慰めているのはエンジュとウサコだ。
「2度目にね、偶然信長に出会った時、私、一緒に育った犬を亡くしたばっかりだったの」
エンジュもウサコもその話は聞いたことがあるが、余計なことは言わずに相槌を打つ。
「あの時は本当に悲しくて、それでひとりで海に来てて、そこに、信長とユキが」
の声が涙で震えた。それをきっかけにの人生は清田家に向かっていく。あの時が行き場のない悲しみを抱えて海までやってこなかったら、そこに信長がユキを連れて散歩に来なかったら、今の清田家は存在しないのである。エンジュもウサコもこの家にはいなかったはずだ。
そしてあの日あの朝、ユキがを海の中に引きずり込まなかったら。ユキはつまり、この家の運命を動かした犬でもあったわけだ。
「あの時もものすごくつらかったし、今もつらいんだけど、だけどハルたちも可愛いし、そうやってまた次の犬をかわいいかわいいって言いながら生きていくのかなあって」
家族を亡くす悲しみはもう味わいたくないから二度とペットは飼わない。そういう選択もあるだろう。だが、現状清田家にはまだ3匹犬がいるし、ユキを失って悲しいからといって彼らの面倒を見たくないわけでなし、三柴たちだって可愛いのである。
そういう日々の中にユキの記憶が埋もれていってしまうんじゃないか。
すると、動物と言ったら小学校にいたニワトリくらいしか記憶にないウサコがの頭を撫でた。
「そうかなあ。の中からユキちゃんが好きって気持ちがなくなるとは思えないけどな」
「変な例えで悪いんだけど……オレ未だに18ん時の元カレ、好きだよ」
ウサコとは思わずふっと鼻で笑った。と信長を除くと、エンジュが最も愛した他人は高校3年生の時の彼氏である。お互い死ぬほど愛し合っていたのだが、やむを得ない事情で別れを選び、そしてエンジュは一浪した。
「あの時の記憶って今も鮮明だし、頭がおかしくなるくらい好きだった感覚も覚えてるし、それはたちを好きな感情とは別のところにちゃんとあって、たぶん一生消えないと思うんだよね。置き場所が違う感じっていうのかな」
だから大丈夫、エンジュもそう言いながらの頭を撫でた。
「それに、きっとこれだけずっと犬を可愛がってきた家だから、もう飼わないって言っても、ご縁があるんじゃないかな。たぶん犬にとってもこの家って、すごく魅力的なんだと思うよ」
はまた涙を流しながらも、何度も頷いた。
それから1週間ほどして、信長はを連れて近所の海まで散歩に出かけた。1月の寒風吹き荒ぶ海岸は人も少なく、また平日の昼間のことだったので車通りも少なく、ふたりは久しぶりに手を繋いで歩いていた。子供が出来てからは中々こういった機会はなかった。
というのも、やはりが落ち込んだまま浮上できず、厳しい寒さも手伝ってか体調が優れない日々が続いていたので、だったらいっそのことユキとの思い出が残る場所に行ってみたらどうか、と信長は考えた。この浜はふたりの節目に必ず出てくる場所でもある。
由香里は信長から話を聞くと、家のことは気にしなくていいからゆっくりしておいで、と送り出してくれた。子供たちはお留守番だが、頼朝とウサコもいるし、何ならぶーちんを呼んでもいい。
なので少なくとも信長はこの日を「を徹底的に甘やかす日」として、思い出の場所巡りなどであちこち連れ回すつもりでいたのだ。何でもいい、少し気が紛れてに笑顔が戻るなら。
だが、ふたりは18時頃に慌てて帰ってきた。
「どうしたのよ、こんな早く――って何その子!?」
玄関に出迎えに出た由香里の素っ頓狂な声がリビングにも響き渡った。
「なんだ、どうした由香――おいおい、どうしたそれ!」
由香里を追いかけてきた新九郎も大きな声を出した。と信長は、自分たちでもよくわからないという、狐につままれたような顔をして、青い瞳の子犬を抱いていたのである。