恋愛エクスペリエンス

01

湘北のインターハイをかけた最後の試合の翌日、は登校するなり緒方を捕まえると、廊下に引っぱり出した。しかし廊下は人が多く、仕方なくひと気のない階段の踊り場まで引き摺っていく。

「やだくん、こんなところに連れ込んで何するつもり!?」
「看板女優のくせに女の演技がヘタクソってどうなのよ。ほら、この間の」
「この間?」

きょとんとしている緒方の目の前に携帯の画面を突き出す。そこには優勝旗を片手に柔道着で仁王立ちになっている青田の画像が表示されている。かなり顔が固いが、元々頑強な顔つきをしているので、それほど差異はないはずだ。また今回の場合、顔はそれほど重要ではない。

「あー! なんだっけ、湘北の」
「今3年の青田龍彦くんです。ご覧の通り柔道部で、この夏インターハイ決まってます」
「へえ、すごいね湘北。2つもインターハイ行くの。うーん、道着だとわかりづらいけど……
「これ昨日の画像でさ、私にはかなりガッチリしてるように見えたけど」

無類の筋肉好きである緒方の好きなタイプは「ゴリマッチョ」であり、それもぷっくりと筋肉が盛り上がった様が何より好きという17歳の女の子にしては珍しい嗜好の持ち主だ。そのため「ガッチリ」では少し種類が違うのではあるが、同世代で外国人プロレスラーのような体型がそういるわけもなく、妥協する気になってきている。

「いいね、足も短そう」
「それがいいってんだからホントあんたも希少種だよね」
「ていうか向こうはどうなのよ、私たぶん170突破してるよ」
「龍っちゃんも187あるって言ってたし、背が高いことは言ってあるよ」
「ほえー、でっかいねえ」

長年演劇部で男役を演じてきたせいではあるまいが、緒方は今のところクラスで1番背が高い。そして顔は切れ長の目にきりっとした眉、高くはないが細く通った鼻筋と薄い唇。このせいで緒方は中等部1年の頃から女の子に告白され続けている。

「一応あんたの画像も見せておいたんだけど、よかったんだよね?」
「何見せたの?」
「ワールドポーターズに行った時の」
「あれか。それじゃだいぶ女の子っぽかったな」
「いや何言ってんの、女の子なんだからいいじゃん」

三井に会えなくて気落ちするを、岡崎と緒方が横浜まで連れ出したのはGWのことだ。その時の緒方はロングワンピースで、ただでさえ長身の小顔なのに余計にそれが強調されて、モデルにスカウトされていた。しかも一緒にいるのがと岡崎である。声をかけてきたスーツ姿の男性は全員に名刺を渡して帰った。

「龍っちゃん女の子相手だと相当シャイだから特に何も言わなかったけど、だめならちゃんと無理だって言ってくれる人だし、たぶん問題ないと思う。緒方がよければセッティングするけど、どうする?」

青田は赤木の妹に脈のない恋心を長年抱いているが、どうも進展らしい進展はないという話で、思い切って緒方のことをどうかと聞いてみただったが、悪い印象は受けなかった。赤木の妹に片思いをしているということは割と知られたことなので、その現状とアナソフィアのきれいな女の子との間で戦っている様子だった。

そういう事情もあることだし、も無理強いしたいわけじゃない。ただ、緒方は湘北でもパーフェクト・ゴリマッチョじゃなくても妥協する気になっているというし、青田でもいいなら一度会ってみたらどうかというつもりでいる。

「ほんと? じゃあお願いしようかな!」

はにっこり微笑む。緒方は何事もまず実行あるのみ、という性格だった。

が緒方と青田を引き合わせたのは、アナソフィアがテスト期間に入ってすぐのことだ。既に湘北もテスト期間に入っているので、どちらも部活がない。とはいえアナソフィア女子はテスト前に遊んだりしない性分なので、放課後に地元から少し離れた駅でお茶のみ、ということになっている。

部活のない緒方を連れて学校を出たは、青田と待ち合わせているカフェに向かう。ただし、青田はひとりでカフェに入るようなタイプではないので、すぐ隣のコンビニで待っているように言ってある。

緒方を先に店内に入らせ、は青田をピックアップしに行く。赤木の妹への恋心を抱えたまま、それでも青田はの呼び出しに応じてくれた。彼もまた赤木の妹に脈がないらしいことは自分でよくわかっていて、がそれでもいいというので来てみる気になった。前向きなのはいいことだ。

「龍っちゃん、お待たせー」
「おう、早かったな。てか制服久しぶりだなあ」
「そうだっけ。でも、ありがとね、来てくれて」
「いや、礼を言われるようなことは……こっちも何だか中途半端なのに、いいのか本当に」
「そんなに深刻に考えなくていいんじゃないの。友達だっていいんだし」

青田の葛藤はよくわかるが、は努めて気楽に装う。

「緒方も相当ざっくりした子だから、あんまり意識しないであげてくれたら助かる」
「ど、努力します」

は青田の強張った頬に、幼馴染の木暮と赤木を思い出す。この3人は同じ中学で、もよく知っているが、3人ともとにかく真面目で固い。部活バカなのでどうしてもそうなるのかもしれないが、三井に慣れてしまうと厳格なほどに感じる。

「あっ、それと、一応寿くん……三井寿の話は詳しくしてないから、そんな感じでお願い」
「おう、もう少しだからな、お前も頑張れよ」

他人のこととなれば余裕が持てる。青田はに握りこぶしを作って見せると、ニカッと笑った。

普段カフェなど入り慣れない青田を伴ってオーダーを済ませたは、緒方の待つ席までゆっくり歩いていった。ただ、待っているのはちょっとしたモデル並みのアナソフィア女子なので、非常に目立つ。青田がギクシャクし出したのに気付いたが、もう遅い。

「お待たせ~」
「あ、こんにちは!」

手にしていたノートをテーブルに置いた緒方は、顔を上げてにっこりと微笑んだ。美しい。青田がどんどん硬化していくのがわかるが、は背中を押して無理矢理座らせた。187センチの体が椅子に納まりきらないけれど、仕方ない。は青田の前にアイスコーヒーを置くと、ふたりの間に入るように椅子をずらして座った。

「龍っちゃん、緒方時枝ちゃん。私と同じクラスで、公立だったら中学は梅園」
「ど、どうも」
「んで、こちら龍っちゃん、青田龍彦さん。公ちゃんと同じ中学で柔道部、神奈川ナンバーワン」
「インターハイ出場おめでとうございます」

まるで見合いだ。それにしても、得てしてアナソフィア女子はこうしたそつのない切り返しを心得ているものだが、さらに度胸がある緒方は対人スキルにおいてはほぼ無敵。も同様だが、緒方の方が迫力がある分、ナンパなどの撃退も成功率が高い。

「龍っちゃん、緒方は演劇部でこれも県大会によく出るんだよ」
「へえ、演劇部にも大会が」
「そうなんです。高校演劇はさらに関東大会を勝ち抜かないと全国に行かれないんですけどね」

部活の話になると、青田も少し緩む。は合間合間にフォローを入れつつ、青田の柔道部での活躍に話をシフトして行き、出来るだけ解そうとした。青田の方もが気を遣ってくれているのがわかるし、緒方がまた飽きもしない様子で聞いてくれるので、少しずつだが話せるようになってきた。

「それじゃあ今年の夏は忙しいんですね」
「でもお盆の頃にはインターハイも終わってるし、結果がどうでももう引退なので」
「公ちゃんとまったく同じこと言ってる」
「そういうもんなんだよ。インターハイに行かれなかったらもう引退してるんだし」

緒方も無理して笑顔を作っている風でもないし、種類は違えど、お互い部活に夢中になっているという共通点では話が弾む。むしろ部活の楽しさがわからないの方が置いていかれ気味。

のフォローを挟みつつ、ふたりは部活以外にも共通点をいくつか見つけた。犬好き、パンよりご飯好き、弟がいる、夜更かしが苦手、蜘蛛が苦手――

から聞いてるかもですけど、普段こんな風に話すことってないから新鮮」
「特に部活やってるとバイトも出来ないから、本当に同世代の男の子と話す機会ってないよね」
「青田さんがよかったら、またお話させてください」

が三井に興味を持った時と同じだ。知らない世界のことを聞いてみたい。どんな風に見えるものなの、どんな風に感じるものなの。がそうしたように、緒方も携帯を取り出して軽く振って見せた。

「そっ、それは構わないんだけど……
「あっ、龍っちゃん、緒方もメールとかあんまりしない子で」
「電話の方がいいですよね~。メールじゃ心が届かない」
「仰る通りで」

そして、文章より声、何より大切なのはフィジカルだという最大の共通点が出た。

「あ、でも、インターハイ終わるまではお邪魔しませんからねっ」

にっこりと満面の笑みの緒方とまだ緊張の残る青田は、連絡先を交換して、この日は別れた。

そもそもアナソフィアも湘北もテスト期間である。当然テストが終わるまでは緒方の方からは連絡などしない。から湘北の期末の日程を聞いていた緒方は、アナソフィアのテストが開けてすぐ、連絡を入れてみた。湘北はテストが終わって数日経過した頃のはずだ。

夜になって電話に出てくれた青田と少し話した緒方だったが、お互い夜更かしが苦手であるのと、今青田はインターハイに向けて毎日練習詰め。30分ばかり話をしたところで切り上げてしまった。話した内容もほぼ部活の近況で、プライベートな話はあまりしなかった。

ところが、アナソフィアがテスト休みで緒方がまた部活漬けになっている頃、突然青田から連絡が来た。

「えええ、それマジですか」
「は、恥を忍んでお願いします」

なんと期末テストで赤点を5つ取ってしまったという青田は、このままだと校則に則り、インターハイへ行かせてもらえなくなると言って電話をかけてきた。なんとか翌日に追試を取り付けてきたものの、ひとりでどうにかなりそうもないと思った青田は、藁にも縋る思いで緒方に助けを求めてきた。

仮にも緒方は1学年下なのであるが、県立と私立で授業内容はまるで違うし、また偏差値にも大きな隔たりがあるのは知れたことなので、もしかしたら力になれるかもしれない。

部活はあっても一応休みの緒方は、青田の押し殺した声を可哀想に思って快諾した。

「場所はこの間のカフェでもいいですか。隣のコンビニで待ち合わせで」
「わかりました。本当に申し訳ない」

部活漬けと言っても、秋の県大会まではまだ時間がある。緒方は自主的に切り上げると、荷物が多いので一度自宅に帰り、着替えてから待ち合わせ場所に向かった。に青田はシャイだと聞かされているので、出来るだけシンプルな服を選び、あまり女の子を感じさせないように振舞う。

「ほ、本当になんと言っていいか」
「いえいえ、私テスト休みだし、この際そーいうの抜きにして、なんとかクリアしましょ」

青田の方は制服である。先日と3人で会ったカフェの奥に陣取り、青田が奢ってくれたアイスコーヒーを挟んで緒方は対策を練り始めた。幸いなことに、緒方は人に物を教えるのが得意で、しかも適度に厳しい。教科書も確認したが、なんとかなりそうだ。

「せっかくのインターハイですもんね、絶対追試クリアして、広島行きましょうね」
「ああ、に聞きましたか」
「この間聞きました。応援しに行きたいけど行かれそうもないって言ってました」

緒方にどれだけ話が伝わっているかわからないので、青田はの事情には口を出さない。この子なら三井でもバカにしたりしないんじゃないだろうかとは思うが、それはが判断することだ。

「青田さんもテスト勉強しないで練習ばっかりしちゃったんじゃないですか?」

俯いて教科書をパラパラとめくりながら、緒方はにんまりと笑った。テーブルについた肘、頬に添えた指、桜色の爪、つるりとした白い頬。どこをとっても緒方は「きれい」だ。可愛いというよりは美人という表現がよく似合う。青田はそれにちらりと目をやると、すぐに落とした。

確かに勉強もせずに練習していた。しかし、それだけではなく、赤木の妹と緒方のことがちらついて、勉強などできる精神状態じゃなかった。小柄で天然トロくて緩くて可愛い赤木の妹、長身でスレンダーで快活で聡明な美しい緒方。まるで対極にある女の子ふたり、似ても似つかないが、どちらも素敵な女の子だ。

そんなことが頭を占めているのを感じるたびに、余計に練習に打ち込んだ。そんなこと考えてる場合じゃない、そんなこと考えてる暇があったら練習。勉強しようとして机になど向かってしまったら、ふたりの顔がちらついてしまう。

そうして結局赤点を取り、頼るところのない青田は緒方に助けを求めた。晴子には頼れない。同じく赤点を大量に出したバスケット部員の面倒を赤木宅で見るというから、自分の入る隙間はない。

緒方なら助けてくれるんじゃないか――そう思いついてしまったことも、最初は情けなくて恥ずかしくて、絶対に無理だと思っていた。だが、他に手がない。のことも考えないではなかったのだが、三井も木暮もいないのにふたりで勉強などしてはならないと思った。

「本当に……鍛錬が足りなくて情けないんだけど」

きれいな女の子と知り合ったからってボーッとなって、そのせいでテストをしくじって、インターハイがピンチで、結局その女の子に縋って助けてもらっている。情けないの他に言葉が見つからなかった。だが、そんな青田に緒方はまたにっこりと微笑んだ。

「そんなことないですよ。主将、根性見せてやりましょ。これも勝負です!」

そう言って歯を見せて笑う緒方に、青田は返す言葉がなかった。――あまりにきれいなので。

翌日、また部活に出ていた緒方の元に青田からメールが来た。ちょうど昼休憩にしていた時のことで、無事に追試をクリアしたことと、今から練習だということ、それから勉強に付き合ってくれたことへのお礼が書かれていた。

アナソフィア女子であり、現在は演劇部で台本にも関わる緒方から見れば、たどたどしい文章だった。それでも、ふざけて自分をよく見せようという意図がまったく感じられない言葉の選び方に、緒方は初めて青田を好ましく思った。メールは苦手なはずなのに、きっとこの後練習があるから話したくなかったんだろうということもよくわかる。

そして、文末にある「インターハイが終わったらお礼をさせて下さい」という一行につい頬を緩ませた。

「どうしたの緒方、ニヤニヤして」
「先輩。いやなんでもないです。県立に行ってる友達がちょっと」
「へえ、県立の友達なんかいるの。小学校同じとか?」
「まあそんな感じです」

中高一貫教育のアナソフィアは入試時の偏差値が高く、生徒たちにその自覚はしっかりあり、公式に交流がある私立の翔陽高校ならともかく、県内の県立高校に対してはやや差別的な意識がある。それはもう数十年前から変わらない。湘北の元ヤンなどと付き合っているが特殊なのだ。

そんな風に伝統の殻を破ったをすぐそばで見ていたら、なんだかこうして「県立の友達なんか」と言われてしまうアナソフィアの現状に大いに疑問を感じてきた。アナソフィア女子は彼氏欲しいと言うものの、条件は大変厳しく、そのくせ学力以外は他の高校生と大して変わらない。

確かに青田はバカだった。1学年上だというのに充分テスト勉強を助けてやることが出来た。だけど、それだけだ。少なくとも一緒に勉強している間に青田を不快に思うことはなかった。がいないとなぜか敬語で、だけど格闘技部の主将らしく礼儀を弁えており、何事も丁寧だった。

それを「県立なんか」でひと括りにされてしまいたくなかった。

緒方はさくさくとメールを打ち返す。とりあえず、今はインターハイが全てだ。あれやこれや、緒方も思うところはあるが、そんなものはインターハイが終わってからでいい。も例の彼氏とはインターハイが終わらないことには色々片付かないと言っていたし、運動部相手は仕方ない。

「頑張れ主将、っと」