公延の母親は鍋にいっぱいのカレーを用意していてくれたのだが、日々激しいスポーツをしている10代の男子が公延も含めて5人ということをあまり正しく把握していなかったらしい。米が3合しか炊かれていなかった。焦ったは自宅に帰ってなんとか増量を図り、また自分と公延、彩子は後回しにすることでその場を凌いだ。
――と思っていたのだが甘かった。足りない。特に桜木と流川がよく食べる。
「ええと……彩子ちゃんまだ我慢出来るよね?」
「わ、私なんか平気だから気にしないで!」
「そんなわけで公ちゃんも我慢ね……あとでまた作るからとりあえず今はもう打ち止めね……」
取り分けておいた三井の分を狙う桜木を追い払いながら、と彩子は大きくため息をついた。予想をはるかに上回る事態には早くも今日の夜食と明日の夕食の心配をしなければならなかった。確かに桜木も流川も体の大きさが違うので計算ミスだったと言えばそうなのだが。
「公ちゃん何て言ったの? 赤木くんみたいなのがふたり来るって言った?」
「ははは……言いませんでした」
はもう遠慮せずに公延をはたいた。勉強を始めたいのにご飯だのの話だのバスケットの話だの、なんだかわいわいと楽しそうな雰囲気になってしまっていて、はますます焦った。そんなことしてる時間ないのに。公ちゃんも甘やかしてんじゃない!
そこへチャイムが鳴って、例の居残り3年生だという三井がやってきた。はカレーが足りるのかとやきもきしていたが、ダイニングのドアガラスに映る人影が公延より少し大きいだけであることにまずはホッとしていた。だが、本人がダイニングに入ってくるなり今度は当のが騒ぐ羽目になった。
「ああ! あ、あ、なんであんたがここにいるのよ……!」
「うわ、なんだ久し振りだなおい、って、え? まさかお前例の木暮の」
と三井はお互い指を指し合って声をあげた。
「ん? さんミッチーと知り合いか?」
「、三井知ってるのか?」
ぽかんとしている三井とは対象的に、は憤怒の形相でぷるぷると震えていた。
「髪型が違ったから一瞬判らなかったけど覚えてるわよ、この、悪質ナンパ男!!」
宮城はお茶を吹き出し、桜木がひっくり返った声で上げた悲鳴が木暮家にこだました。
一転、気まずい雰囲気の木暮家である。三井はしれっとしてカレーを食べているが、宮城と桜木は面白がるし、も気持ちの方が落ち着かなかった。
「私、女の子しかいない所でバイトしてるんだけど、去年から変なのが入り浸るようになって」
のバイト先はアイスクリームショップ。その変なのは反論もせずに黙々とカレーを食べている。
「最初は別のグループが来てたんだけど、入れ替わりであいつらが来るようになった」
「……助けてやったろ」
「そんなこと頼んでないでしょ。本当にやばかったら通報するのに余計なことして」
隣に座った彩子に宥められながら、はカリカリしている。カレーを突付きつつ口を挟んだ三井はしかしまだ無表情だ。ニヤニヤしている宮城桜木、複雑な表情の公延、すっかり熟睡している流川。勉強が始まらないまま19時を回ろうとしている。
「確かに別のグループに絡まれてたのは事実だけど、頼んでもいないのに店の中でそいつらと喧嘩し始めて、勝ったからとかいって今度は自分たちが居座って絡むようになったってわけ。それぞれターゲット決めて店が終わっても近くをウロウロしてたし」
早くも彩子あたりは呆れた顔である。これもある意味では三井のもたらした混乱の名残だ。
「で、そこの三井さんが私の担当だったのよねー。急に来なくなってホッとしてたのに」
以外は「入院したな」と思い当たっていたが、口には出さなかった。
「何もされなかったのよね?」
「彩子、お前ね」
「まあ、それはないけど……しつこかった。店長も女の人だからほんとに迷惑だった」
も不運だったが、店に現れなくなった三井のその後をよく知る湘北勢は彼を責める気持ちにはなれなかった。公延も何も言わないし、後は三井本人がどうするか、がどう思うか、それしかない。
「……悪かったよ。気に入らなければオレ帰るぜ」
「ばっ、何言ってんだ三井お前1学期の期末赤点4つだったろうが!」
「木暮お前さ、今何が問題になってんのかわかってんのかよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう!」
の横で、彩子が「あっ」と小さく悲鳴をあげた。その隣の宮城も額に手を当ててハーッと息を吐いた。確かに今湘北バスケット部の主力選手は手段を選んでいられない立場にあるが、問題の焦点となっているのは臨時講師のであり、それをしつこくナンパした三井であり、公延の言葉は彼が言うべきものではなかった。
は、公延を想う気持ちが行き場をなくしてしまったような気がして、一瞬でも気を抜いたら泣き出してしまうのではないかと思った。そりゃあ大事なチームメイトでしょうよ、大事なチームでしょうよ、引退したって心配で仕方ないんでしょうよ、だけど、私は、今も彼女だって紹介されない私は公ちゃんの何なの?
「、私も毎日来るし、なんなら三井先輩は木暮先輩の部屋行ってもらってもいいんだし」
「彩子ちゃん」
ああだこうだと言い合っている公延と三井に聞こえないように、彩子はの手を取りつつ囁いた。その向こうから宮城も顔を出して片手で拝むポーズをしてみせた。
「ほんとにごめん。不愉快だろうけど、許してやってくんないかな」
「悪い人じゃないのよ、だけど、その時はたぶん一番ひどく荒れてた頃で」
自分のことなど目の端にもかけていない様子の公延の声を聞きながら、は小さく頷いた。
「ありがとうふたりとも。でも、私、実はそれほど怒ってないから」
「……が怒ってるのは木暮先輩だもんな」
「リョータ!」
だが事実だった。一時バイト先で迷惑行為を働いていた三井に対して、不愉快な思いを拭いきれないのもまた事実だけれど、それは三井にとって後輩に当たる面々の前で一方的に暴露し文句を言ったことでいくぶん治まっていた。今は別人のようだし、不幸な過去があったにも関わらず優秀な選手なんだとも聞いているから。
「うん、そう、怒ってる。今すごく泣きたいくらい怒ってる」
「、そんなにきついなら……」
「いいの彩子ちゃん。リョータくんならわかるかな、それでも好きなの」
は寂しい笑顔だった。悲しい微笑だった。彩子と宮城はウッと声を上げて絶句した。
その時だった。
「ふぬー!!」
湘北勢には馴染みのある唸り声と、鈍い音が2つ。
「花道!」
慌てて宮城が立ち上がる。今のたちの話を聞いていたのかどうか、とにかく桜木が公延と三井にそれぞれ頭突きをかましたらしい。ふたりとも桜木の頭突きを食らうのは初めてで、目を白黒させている。
「ふたりともさんに謝れい! さん、なんならもう一発お見舞いしますよ!」
「なんでオレまで!」
ここにきても悪気のまったくない公延は理不尽な頭突きに困惑しているようだが、騒ぎに目を覚ました流川でさえその様子に呆れたため息をついていた。はしっかりと手を取ってくれている彩子と、その前に立ちはだかってを陰にしてくれている宮城がいてくれてよかったと心から思っていた。
「、どうする」
「うん、大丈夫。出来るよ」
と彩子の声を聞きつけた新主将である宮城は、桜木を宥めつつ3年生ふたりの前に歩み出た。
「、とりあえず腹に収めてくれるって言ってます。この話は後にしましょうや」
「だから早くそうしようと」
「木暮先輩はちょっと黙っといた方がいいっすよ」
「えっ!?」
の傍らから立ち上がった彩子が手を叩く。
「さあほら、そうと決まったら始めましょう! 木暮先輩は三井先輩を、は1年ふたりを頼むわ」
「わーい、じゃあオレアヤちゃんとマンツーマンだ」
まだ気まずい雰囲気ではあったが、時間がない。公延と三井も頭突きされた額をさすりながらテーブルに戻った。彩子と宮城もテーブルを使う。はまた寝入りそうな流川を揺すり、桜木を座らせてリビングで勉強を始める。自分のために怒ってくれた桜木をは嬉しく思いつつ、ノートを開いた。
「さん、またムカついたらオレが頭突きしてきますからね」
「ありがとう桜木くん。でも頭突きより勉強しよう。君は出来る子なんでしょ」
「はっはっはそのとーり!」
桜木はお調子者だが素直で人懐っこい。はとりあえず公延と三井のことは忘れようと決めた。この坊主頭と寝ぼすけを赤点回避させなければ。公延のためではなく、彩子や宮城や、赤木のためにやってやろう。そう決めた。生まれてから今まで生きてきた中で、の心が公延から1番遠く離れた瞬間だった。
この日、それぞれに算段を取ったり勉強を始めてみたりしたことである程度状況が読めてきたは、彩子とも相談して落とす教科や力を入れる教科などを割り振っていった。
「1年はね、まず流川だけど、あれは出来ないんじゃなくてやる気がないだけ。出来るよ」
「ああ……そうでしょうねえ。そんな気がしてたわ」
「花道も出来ないわけじゃないみたい、やり方が解らないだけな感じがする」
「へえ、そうなの! どう、大丈夫そう?」
「うん、花道の方が希望持てそうだよ。流川の方がちょっと面倒」
1時間かそこらの指導を経て、はふたりを呼び捨てることにしたらしい。桜木と流川にしても気にする性質でなし、その方が楽だ。それに、桜木だけでなく意外と流川も従順に指導されている。
「やり方が解らないってのはリョータもそうね。そうか、やり方ね!」
「あっちは大丈夫なの?」
「うん、元々バカじゃないみたいだし1番話が早そうよ。数学は捨てたみたいだけど」
「ああそっか、怪我でグレてたんだっけ」
「変に脆いのよね、あの人。気負いやすいっていうか。面倒くさいわあ 」
彩子はが入れてくれた紅茶を啜りつつ、口を尖らせた。そして、桜木と流川の予定表を書いているを眺めながら頬杖をついた。
「は強いね。尊敬するな、そういう強さ」
「そんなこと……私、他に何もないんだもん」
「桜木花道だけじゃないわ、私も殴ってあげるからね」
「アヤちゃんやめてよ、泣いちゃうよ」
この日全員が終電までにテストまでの予定を組み、また少し勉強も開始して帰宅することが出来た。帰るだけでも騒々しい中で、は三井はもちろんのこと、公延ともろくに口を利かずに自宅へ戻った。公延も慣れないことをしたせいで疲れ、そんなことに気もとめずにさっさと寝てしまった。
翌日は授業が終わり次第、木暮家集合である。