バイプレイヤーズ!!

01

三井とヒヨコ

もうとっくに引退したはずなのに、未だに手のかかる放送部から教室に戻ったヒヨコこと春日智紗は、教室に入るなり人影に驚いて足を止めた。部活がないなら下校している時間だし、部活であれば教室になんかいない。というか人影はどう考えても部活をやっているクラスメイトのもので、ヒヨコは首を傾げた。

「どうしたのーこんな時間に」
「おお、ヒヨコか」
「今日練習ないの?」

ヒヨコの声に振り返った三井は、自分の席でバスケット部のジャージのポケットに手を突っ込んでいる。

「いや、練習はあるんだけどな。ちょっと待ち」
「体育館今日何かあったっけ?」
「いや、そーいうんでなくて……その、実は、推薦の話が来てて、大学のチームの監督が」
「推薦……えっ、もしかしてバスケで!?」

自分の席で荷物をまとめているヒヨコはひっくり返った声を上げた。ヒヨコより2列ほど前に位置する席の三井は、照れくさいのか黒板の方を見上げたままちょこんと頷いた。

しかしヒヨコにしてみれば、同じクラスになった時点ではこれでもかというほどグレていた三井がバスケットで大学に行かれるかもしれないなど、まるで魔法でも見ているかのように感じられた。勢い気持ちが沸き立ったヒヨコは、荷物を放り出して三井の席の前に踊り出た。

「すご、すごくない!? それって三井のバスケが上手だからなんでしょ!?」
「上手ってかその、夏とこの間の国体見てっつーことらしいんだけどな」
「それでなんでこんなことで待ってんの」
「今監督と校長と担任と話してるから待っとけって」

突然のことだったので、まずはその3人、それから本人を呼んでの話になるらしい。本来なら三井の親も呼ばねばならないところだし、一応連絡をしてみたけれど、唐突過ぎて間に合わないとのこと。無理もない。

「そっか……まあそうだよね、シュートだけなら全国トップクラス」
「あのな。お前まだ体育祭引きずってんのか」
「そんな怖い顔しないでよー。ストラックアウト、すごかったじゃん」

ひと気のない校舎、廊下を音もなく吹き抜けてきた風がドアを通ってまた逃げていく。静かな教室の片隅で、ヒヨコと三井は数日前の体育祭のことを思い出していた。ヒヨコにとっても三井にとっても、この体育祭は少し変な1日だった。たかが体育祭だというのに、ふたりはその日を境に少しだけ変わった。

……お前もすごかったよな、声、ガラガラで」
「すごいの意味が違うと思うけど」
「そうか? 会長の悪巧みを全部フォローしたのはお前だろ」

ヒヨコは三井のふたつ前の席にすとんと腰を下ろした。ふたりはお互いが見えない方向を向いている。

「したくてやったわけじゃなかったんだけど、なんかもう、必死で」
「あいつ、なんだっけリポーターの」
「ロミオ? 浅間。浅間陽里、よりちゃん」
「ああそう、浅間。あいつもそうだったけど、なんとか被害が出ないようにしてたんじゃないのか」

そう、この年の体育祭の部活対抗レースは大変だった。ふざけた人物がふざけた企画を本気で通し、それに巻き込まれた人々が必死に成功させたレースだった。ヒヨコはその巻き込まれた方の中心人物である。

「被害というか、が心配でさ」
「なるほどな。あいつも巻き込まれたクチだもんな」
「レース関係者の女子はみんな木暮を推してたし、も木暮が気になってたみたいだったし」
「マジか。すげーなあいつ」

三井はニタリと笑う。しかしと木暮が無事にまとまったのは、三井が譲り渡した部活対抗レースの賞品である映画鑑賞券のおかげでもある。そういう三井も更生してからこっち、学年問わずに告白が絶えない。それに戸惑って全て断っているらしいが、と木暮がまとまったのは嬉しいようだ。

「まあ、あいつらは志望校も同じだしな」
「推薦来てる大学って遠いの?」
「東京」
「通い?」
「寮なんじゃないか」
「そうかー。そしたらOKできないよねえ」
「何が」
「告白」
「ハァ?」

別におかしなことは言ってないぞという顔をしたヒヨコに、三井はつい吹き出した。

「笑うとこ? うちは専門と就職がほとんどじゃん」
「別にそういう理由でもねーよ。今日まで推薦の話が来るとも思ってなかったんだし」

やっと向き合ったふたりは、そろって腕組みをしている。

「んじゃ好きな人いるとか」
「それもねーよ」
「なんてもったいない……この間昼休みに来た2年の子超可愛かったじゃん」
……今はいらねーんだよ、そういうの。オレん中にそういう余裕がない」

ヒヨコは首を傾げ、不思議そうにふん、と鼻を鳴らした。そういうもん?

……だけど、あれ以来、そーいうのとかは別にして、例えばお前みたいな、クラスの女子とか、同中だった女子とか、少しだけ普通にできるようになったから、それで満足してんだよ。もう充分だ」

体育祭の時、ストラックアウトで好成績を残した三井だが、その間実況のヒヨコにさんざんいじられ、またそれを全校生徒に聞かれたせいで、特に女子には「元ヤンだし顔怖いけど普通に話せる人なのかも」と認識を改められている。最近の三井は確かに誰とでも普通に話をしている。

グレていた春先には、こんな学校生活が待っているとは思ってもみなかったに違いない。

「前は廊下とか歩いてると人が避けたし、それはオレが怖いからで、強くなった気分だったし、悪い気はしなかったんだけど、今は誰も避けていかないし、女子だろうが男子だろうが、知ってるやつならおはようだのお疲れだの、そういうの平気で言うし、前より全然楽だ。昔みたいなのは……疲れるから」

強くなったつもりでいた頃にも、そんなことは思いもしなかっただろう。けれど誰も避けていかない廊下を歩くたびに、怖がられていた頃は常に張り詰めていて、緊張していて、尖っていて、すごく疲れていたんだと気付いた。自分の心に正直になってバスケットしている今の方が、自然な気がしている。

「去年の体育祭なんてずっと体育館の脇で喋ってたからな。おかしなもんだけど」
「クラス対抗リレーもすごかったよねえ。実は後輩がひとり落ちました」
「可哀想なので何とかしてあげて下さい」
「私にはどうすることも」

バスケット部は元々インターハイや全日本ジュニアの合宿に呼ばれたという1年生のせいで目立つ存在ではあった。だが、それも基本的には「うちのバスケ部ってすごいらしい」とか「1年の流川がかっこいい」とかそんな程度で、部員全員の顔と名前が知れ渡っているわけではなかった。

ところが、件の体育祭では放送部の実況がついたせいもあって、それまで同学年では知られた方、という程度の部員まで有名になってしまった。三井もまあ、そのくちだ。1年生の時に同じクラスだった生徒くらいしか、彼の転落と更生を知る者もなかった。ほとんどの3年生にとって、三井はただの「ヤンキー」だった。

それがストラックアウトでパーフェクト寸前まで行くわ、クラス対抗リレーでは2位に食い込むわ、その上ヒヨコのいじりで前歯が差し歯であることが知れ渡っても、ネチネチ怒ったりしないというおまけまでついた。女子たちが目の色を変えたのも無理はない。

「違ったらごめんなんだけど……もしかしてさ、体育祭、楽しかった?」

春頃には前歯が折れたままだったせいでマスクをかけて睨みを効かせていたとは思えないほど、三井は穏やかな顔で窓の外を見ている。そんな三井を見ていたヒヨコはつい、そんなことを言った。

……楽しかった、と思う。少なくとも当日はそう思ってた」
「何だか人ごとみたいだね」
「実際そんな感じだ。全部自分のことだけど、どこかでまだ夢みたいな気もしてる」
「将来の夢ってバスケ選手?」
「そこはなんとも。なれりゃいいけど、資格取れば誰でもなれるってわけじゃないし」

同じように才能努力商売を目指すヒヨコは黙って頷いた。気持ちはよくわかる。

「だけどそれしかないもんね。やってないと、辿り着かないし」
「お前はなんだっけ」
「え。あー、笑わない?」
「笑わねーよ」
「声優」

ぼそりとヒヨコが言うなり、三井は口をポカンと開け、目をひん剥いた。ヒヨコも驚いて身を引く。

「わ、わかってるよ、アホな夢だってことくらい……
「いやいやいや、お前それ、天職だろ!」
「は?」

椅子に深々と座り、背もたれに沈んでいた三井は、ひょいと身を起こして乗り出した。

「てかお前そのピヨピヨ声地声なんだろ、生まれ持った才能みたいなもんじゃねーか」
「ピヨピヨ……
「あれっ? でも確か実況の時は普通の声になってなかったか」
「低く出すと普通っぽい声になるんだよね……気を抜くと高くなるというか」

要するに地声がアニメ声だ。中学生の時にアニオタの友人にアフレコ体験なるイベントに連れて行かれたヒヨコは、その時のイベント担当者に「いい声をしてる」と言われたのがきっかけで声優になりたいと思うようになった。それまでアニメもゲームも映画の吹き替えにも興味がなかったヒヨコだが、声優への夢は一気に膨らんだ。

「それじゃアホな夢ってこともないだろ。進路どうすんだ」
……声優の学校」
「だったらなんでそんなしょげてんだ」
「うん、体育祭の時にさ」

声優になりたいという夢を抱いたヒヨコは、高校に入って放送部に入部した。3年の今年は部長にまでなった。だが、体育祭の時に実況を仰せつかった彼女は大変な壁にぶち当たった。アドリブで喋れなかったのだ。

「アドリブの実況だけじゃなくて、最初、会長とか編集長の言う『イジる』ってのが全然出来なくて」
……それ、出来ない方が善人て感じもするけど」
「まあそうなんだろうけど、終わった後にさ、言われたんだよね」

ただ原稿読むだけでそれが声の表現なわけがないんだからな。

ヒヨコもまた窓の外をちらりと見ながら、その言葉を思い出していた。決まった原稿をすらすら上手に読めればいいんだとどこかで思っていた自分に気付かされて、ショックを受けた。声優ということは「演技」をしなきゃならないというのに、もし今ロミオたちの演劇部に放り込まれたら何も出来ない気がした。

「だけど声優って全部アドリブなわけじゃないだろ」
「そうなんだけど、言われてみれば、声で表現する仕事なんだってことを意識したことなくて」

体育祭の実況が声による「表現」だったかどうかは怪しい。だが、ヒヨコはそこで初めて自分のやっていることがただの「音読」だったことに気付いた。朗読ですらない。生まれついて可愛らしい声をしているということだけに寄りかかっていた夢だった。

「大変だったけど、私も体育祭楽しかったな。なんだかちょっとだけ前がよく見えるようになったというか」
……そうだな。見えてなかったんだって、今更気付くんだよな」

そこへバタバタと忙しない音がして、担任が教室のドアから顔を出した。

「三井遅くなって悪かった、校長室に――って春日か? どうした」
「放送部手伝ってました。今はちょっとお喋りを」
「そうか、悪いけど三井は用があって――
「はい、聞いてます。私はもう帰るので」
「そうか、気をつけて帰れよ。三井、オレちょっと職員室に行かないといけないから、校長室の前で待っててくれ」
「わかりました。今行きます」

落ち着かない様子の担任はくるりと踵を返すと、またバタバタと去っていった。

「推薦、決まるといいね」
「それもなんか実感ねえんだよな。欲しいと思ってたけど、いざ本当に来るとな」
「大丈夫だって。ストラックアウトの動画見せたらいいよ」
「そしたらお前のイジりも一緒に聞かれるだろうが」

荷物をまとめたふたりはへらへら笑いながら教室を出た。三井は左側、ヒヨコは右側だ。

「じゃあね。お客様睨んじゃダメだよ」
「き、気をつける」
「リラックスリラックス! 小さい声で『あー』って言い続けてると楽になるよ」

三井が強張った顔をしているので、ヒヨコはそう言ってピースサインをしてみせる。そして、じゃ、と言って別れようとしたヒヨコの背中に、三井は声をかけた。

「ヒヨコ」
「えっ、何」
「オレ、お前のあの実況に助けられたんだ」
「はっ!?」

三井はまだ強張った顔をしていたが、いつになく真顔で、ヒヨコはポカンとしている。助けられたって……

「会長たちの入れ知恵だったとしても、お前がああやって淡々とイジり倒してくれたおかげで、オレはバスケ部の外でも普通にしていられるようになったと思ってる。表現かどうかはわかんねーけど、お前の喋りがとりあえず人ひとり助けてるんだってこと、覚えとけ」

そして三井は照れくさそうに頬を緩めて、少しだけ微笑む。

「オレはもうどうにもならないってとこまでバスケ続ける。だから、お前も頑張れ。オレ、字幕だと眠くなるから映画は吹き替え派なんだ。そーいうのも声優の仕事だろ。楽しみにしてっから。じゃーな」

ヒヨコが何と返したらいいか戸惑っている間に、三井はくるりと背を向けてスタスタと去って行ってしまった。

その場に立ち尽くすヒヨコは、ややあって俯き、くすんと鼻を鳴らした。

ものになるかなんてわからない夢、だけど手放せないその夢は、バスケットも声優も同じ。もうどうにもならないってとこまで、続ける。そんな覚悟はまだない気がしたけれど、そういう三井の強さみたいなものは、是非とも真似したいと思った。

バスケットやってたなんて知らない人がいるくらいグレてたのに、腹括って復帰した勇気、推薦の打診が来るくらい結果を残して、だけどこんな毎日の学校生活が少し楽になったからって、お礼を言えるなんて。

そういう強さ、私も欲しい。そういう強い人間になりたい。

私も助けてもらったよ、三井。ありがとう。

ヒヨコは目をぐいっとこすると、背を伸ばし、三井のようにスタスタと歩き出した。