愛という名の

「男同士の話はいいけど、熱くなって喧嘩しないようにね」
「大丈夫大丈夫、話すだけだよ。ノブの状態によってはさっさと寝ちまうかもしれん」

の父親の通夜が行われた、その夜。彼女のもとへ行きたい息子を張り倒し投げ飛ばし引き止めた父は、「今夜は男同士の話をする」と言って、まずは信長を風呂に入らせた。すっかり頭に血が上っていた信長はずいぶん長いことシャワーを浴びている。

新九郎と由香里の寝室はリビングの真横にある。大きな和室だが、やっぱり物で溢れていて、その中に寄り添うようにして布団を敷いて休んでいる。今日は由香里に別の部屋に移ってもらい、信長とサシで話をするつもりらしい。

普段なら新九郎が遅くまで晩酌をするし、由香里も家事が片付けば相伴にあずかることが多い。そのためリビングダイニングは日付が変わる頃まで明るいのが普通だが、今日は既に明かりが落ちていて暗い。頼朝も尊も、今夜ばかりは早々に部屋に行ってしまっている。

由香里が和室に布団を運び、じゃあねとリビングを出ていってから、猫背の信長がのろのろと戻ってきた。暖かくなるとパンツ一丁か上裸で寝ているという信長だったが、今日はジャージにTシャツを着ている。そして父親がどっかり胡座をかいている向かいに腰を下ろした。

「まったく、これでお前がハタチ過ぎてたらな」
「ハタチ過ぎとこんなことしたいのかよ」
「ああ、したいともさ。息子と酒を飲むってのは親父の夢だからな」
「もう頼朝と飲んだだろ……

新九郎は丸い鎌倉彫のお盆に酒とつまみを用意していて、信長はすばやく立ち上がると冷蔵庫からきつい炭酸のペットボトルを引っ張り出してきた。まだ酒は飲めないが、風呂上がりで喉も乾いているし、父親が酒を飲んでいるのに自分は何もなしでは、間が持たない気もした。

そうして信長が落ち着くと、新九郎はゆっくりと息を吐いて、腕を組んだ。

ちゃんとは、どこまでいってるんだ」
……は?」

驚いた信長だったが、いやまさか一瞬想像した意味ではなかろう、じゃあどういう意味だ……そう考えて「は?」で返したが、新九郎はゆるゆると首を振る。

「は? じゃねえ、真面目な話だ」
「だから……何の話だよ」
「ふたりの関係のことを聞いてるんだ。まだキスだけか? それとも――
「ちょちょちょ、なんでいきなりそんな話になるんだよ」

そのまさかだった。信長は慌てて両手を押し出し、ワサワサと動かした。何言ってんだ親父。

「お前たちが、まだ高2、もう高2、そういう頃合いだからだ」
……わかんねえよ」
「子供の付き合いを微笑ましく思う程度で済ませておきたいのは大人のエゴだ。だけど現実問題お前たちの体はほぼ大人になっていて、完成間近というところだ。なのに頭ん中も社会的にも、お前たちはまだまだ子供だ。その危うさ、それは自分たちではわからねえだろ」

もちろんわからない。大人から見て高校2年生の自分たちが、体は大人、頭は子供、それが危ねえんだぞと言われても、だからなんだとしか思わない。何もしなくても時間は流れる。やがて体は完成するだろう。頭の中身の方はまあ、そのうち大人になるだろ、というところだ。

「何もお前に正しい性教育をしてやらんと……なんてこたぁ思ってない。しかし、あれは頼朝が小学生の時だったかな、学校から、今度性教育をやります、こんな内容ですっていう案内が来た。それを見てオレは思わず笑ったよ。一体誰がこんなものでマトモに性を学べるもんかってな」

新九郎はグラスに焼酎だか日本酒だかを注ぎ、ぐいっとあおる。

「そうやってきれいごとを聞かされて、歪んだ認識で大人になる。特に男はひどい」
「ひどいって……
「オレは男が威張ってる世の中が大嫌いなんだよ」
「だからわかんねえって……

信長は肩を落とした。ただでさえ悲劇に見舞われているに対して何も出来ない無力感に襲われているというのに、本当に何の話だ。既にたっぷり酒が入っているようだから、話がまとまらないのは仕方ないにしても……

「お前が今避妊もせずにちゃんを抱いたとする」
「は!?」
「そうしたら、ちゃんは妊娠する可能性がある」
「それはそうだけど……
「女が子を身籠り、産み落とすということ、それを、理解してるか?」

特に信長の場合、末っ子である。頼朝なら由香里が信長を妊娠して出産するまでをある程度記憶しているけれど、彼は違う。清田家に訪れる誰かの赤ちゃん、子供はいつの間にか生まれているものだ。

……そんなの、わかるわけ、まだ高校生だぞ」
「話が戻ったな。だから話してるんだ。聞いてるんだ」
「別に今、子供とか、そんなの」
「だけどもうお前は女を孕ませられる体を持ってるだろう」

それでも新九郎の言葉は絵空事にしか感じられなかった。別にそんなの、みんなやってるじゃん……

「女の体に命が宿り、育ち、生まれてくるということは、夢物語じゃない。もっとシビアな話だ」
「それはわかるよ」
「だから子の父親は命がけで子供とその母親を守らにゃならん」

その辺は新九郎個人の「ロマンチシズム」なのでは……と信長は思ったけれど、黙っておく。余計なことを言えばまだ話の道筋が曲がるし、余計な火種は撒くまい。

「そういう責任を負えないうちは、まだ子供なんだよ。セックスは彼女と気持ちよくなる行為だとしか思ってない。その先に一体どんな可能性があるのか、女の子にどれだけのリスクがあるのか、少なくとも女の子の方は多少の知識があるだろう。でもお前らにはない」

新九郎の太い指がまっすぐに差す。信長はすぐに答えられなくて息を呑んだ。

「今日お前は、『自分がいなければはひとりで泣いてる』と喚いた。じゃあお前がいたら、ちゃんは親父を亡くしても泣かないのか? もちろん、違う。そりゃあ悲しければ泣くさ、辛いと感じることに理由はない。しかも悲しみが完全に消えるなんてことはない。過去に戻り、ちゃんの親父さんを事故に遭わせないようにするくらいしか方法はない」

そんなことが可能なら、事故がなかったことになるなら、そもそもは悲しまない。それはつらい思いをしているから悲しみを取り除く――ということとは少し違う。

「つらくて泣いてる人間の涙を止めただけで、自分が役に立ったと思うのは、思い上がりだ」

静かな部屋の中に、新九郎の低い声が吸い込まれていく。思い上がり――

「そりゃ涙はそのうち止まるさ。泣きすぎて疲れれば人間は嫌でもコロッと寝てしまう。そしてまたつらくて泣き出す。本当に涙を止めるっていうのは、本当にちゃんの助けになるっていうことってのは、そういう繰り返しの中で、もう一度立ち上がって前を向いていかれるように、ちゃんが自分でそういう選択をできるように助けてやるってこと、なんじゃねえか?」

新九郎はまたグラスに酒を注いだが、しかし口をつけずに息を吐いた。

「涙を止めただけで、彼女と気持ちよくなっただけで、それが愛だとか、笑わせるぜ」
「そんなこと――
「やってねえならそれでもいい。別にそこは――
「したよ」

こんなこと正直に言うつもりはなかった。けれど、つい言いたくなってしまった。

……この間の、春休みに」
「そういや何度か外泊してたな。ちゃんの家だったのか」
「避妊は、ちゃんとしたって……
「信長、その時、ちゃんを、どんな風に思った」

顔を上げると、新九郎は少し哀しげな、しかし優しい顔をしていた。

……かわいい、って」
「それから?」
「好きだなって」
「それだけか?」
……ずっと、一緒に、いたいって」

それは嘘ではない。興奮で冷静に考えられる状態ではなかったけれど、確かにそう思ったのだ。が愛しくて、頼朝にも尊にも、その他のどんな男にだって渡すものか、ずっとずっとをこの腕の中に置いておきたい、そう思った。

「ほら、信長。全部、自分の感情だろ?」
「どういう意味だよ……
「怒ってねえよ。イラつくな」

信長も怒っているつもりはなかった。新九郎の言うことの意味がわからなくてもどかしいだけだ。

「かわいい女の子を好きになって、ずっと一緒にいたいと願う。それはとても自分本意な感情だろ。相手にとってどんな自分でありたいとか、何かをしてあげたいとか、一緒にいるためにはどんな努力が必要だろうかとか、そういうことは考えないだろ?」

そんなめんどくせえこと考えながら付き合うわけねえだろ……そんなこと思いながらセックスしてる男なんてこの世にひとりもいねえよ。そう言いたいのを信長はグッと堪える。

「まあ、考えないのが普通だろうな」
「はあ?」
「そうやって無責任な快楽を愛と呼ぶんだよ、この世の中は。ガキばっかりだ」

世の中を出されると思考が止まる。まだ高2、学生の身分で知れる世の中などたかが知れている。それを頭ごなしに世の中を知らんくせにと言われても、知りようがないじゃないか。だったら見せてみろよと言いたくなる。見せてみたところで、大したものが出てくるわけもねえのに。

「信長、ちゃんが本当に好きなら、考えろ」
「考えるって……
「お前にとっての、ちゃんという存在を、理解しろ」

あまりに抽象的で掴みどころのない父親の言葉に、信長はがっくりと頭を落とした。けれど、それは高2だから掴めないだけなのでは……という気もした。きっとそんなことだって考えてない。ほんの数日前までは会えばイチャついている気楽なカップルだったのだ。

信長はしかし、ふいに腹の底がじわりと熱くなって、つい言ってみた。

……だったら親父は理解してんのかよ。親父にとって母さん――
「してるに決まってんだろうが! あれはこの世で一番大事な女だ」

ちょっとした反抗心、そして負け惜しみくらいのつもりで言った信長だったが、ヒゲモジャでビール腹の父親は迷うことなくそう言い放った。まだ高2の息子は面食らってよろけた。

「お母さんが苦労して育ってきたことはお前も知ってるだろ。その上お祖父ちゃんが早くに亡くなったもんだから、お前たちを育てながらこの家を必死になって守ってきた。オレも一緒になって戦ってきたと思ってるけど、それでもお前たちを産み落とした分、由香里の方が大変だったはずだ。だけどあの人は負けず嫌いで勝負には正々堂々挑むタイプだし、そういうところは尊敬もしてるし、感謝してもしきれない。オレが出来ることはたかが知れてるけど、それでも何より大事な人だ」

確かに自分の両親は仲がいいように見えたし、それはどちらかというと父親の方が母親を追いかけ回しているタイプ――というのは分かっていたつもりだったのだが、まさかここまでとは。特に末っ子でまだ17年ほどしか親を見ていない信長にとっては、ちょっとした衝撃であった。

「極端な話、オレは由香里のためなら死ねるし、今だって毎晩抱きたいと思――
「ちょちょちょ、そんな話子供にするなよ!」
「都合のいい時だけ子供になってんじゃねえよ。まあ、そのくらい好きだってことだ」

末っ子が狼狽えているので、新九郎はまた酒を煽ると、布団の上にごろりと転がった。話が終わるということだろうか。信長も少し炭酸に口をつけると、そっと横になる。全身がこそばゆくて落ち着かないが、なぜだかを好きだと思う気持ちが溢れ出てきた。

酔っぱらいのオッサンの言うことはよくわからなかったけれど、それでも、ただ快楽をともにするためだけの相手ではないのだと、はそういう存在なんかではないのだと、思いたくなってきた。そうじゃない、自分たちはもう少し心の深いところで繋がっているはず――

……信長」
「なに」
ちゃんは、いい子だよな」
……まーな」
「本当に好きなら、手放すなよ」
「ああ、そうする」
ちゃんは、今頑張りどきなんだ。横槍を入れたり――
「しないよ。会いに行ったりしない。しつこく連絡したりもしない。それでいいだろ」
「大丈夫、すぐにまたもとに戻れる、から」

新九郎の眠そうな声を聞きながら、信長は携帯を持ち上げてへメッセージを送った。それが本当に自分の気持ちを言い表しているとも、その意味を正しく掴めているかもわからなかったし、大袈裟な気もしたけれど、それでも体中を満たしている感情を言葉にするには、これしかないような気がして。

ただ一言、「愛してる」と。

おいおい、あれからもう10年近くも経つのかよ。20代の過ぎ去るスピードってほんとにやべーな。

信長はひとり、病院のソファに腰掛けてぼーっと天井を見上げていた。の陣痛が始まったと由香里から連絡をもらってやって来てみたら、たった今分娩室に入りましたと言われて、そのまま待機である。正直気が気じゃないけれど、立ち会いはが嫌がったので我慢である。

というかは最初、由香里に立ち会いをしてもらいたがった。だが、姑ながらに関係が良好で同居の親代わりだと知ると、助産師は立ち会わない方がいいのではと勧めてきた。なんでも、信頼できる相手が近くにいるとお産が滞りがちになるのだとか。

そんなわけでは初産をひとり戦うことを選び、由香里は一旦家に戻っている。新九郎と尊とだぁが家中ウロウロしてどうにもならんと頼朝から連絡が来たからである。

とは、子供はもう少し貯蓄を増やしてからだよな、という話をしていたのだが、目標額に届かないうちに妊娠が発覚、さんざん「失敗したんだろ」とからかってきただぁに「な? こんなもんだろ?」と言われて肩を叩かれた。ぐうの音も出ない。

妊娠の一報を聞いた時は、正直実感はなかった。飛び上がるほど嬉しいとか、涙が出るほど感極まることもなかった。の腹の中に小さい人間がいるのだということも、よくわからなかった。けれど、やっぱり新九郎の話を思い出した。

そして、これまでになく強く、という人を、守りたいと思った。

それからの日々は新しく知ることばかりで、目が回りそうだった。基本小馬鹿にしがちだった両親は当然、妊娠出産子育ての経験者であり先輩であり、は夫よりもふたりを頼ることが多くて、ちょっとした無力感に襲われたりもした。

その上、兄ふたりにも「お前が生まれた時こんなだったよな」なんてことを言われてしまうと、余計に心が折れた。ぶーちんもだぁも経験者。ちくしょう、どうせ末っ子だよ。

だが、誰に似たのか彼の負けず嫌いは筋金入り。将来に「うちの夫は最初の子を妊娠出産した時、てんで役立たずだった」と言われたくないあまり、彼は彼なりに頑張った。職業はプロのスポーツ選手で色々しんどいことも多かったが、根性で頑張った。

おかげでからは「信長だって初めてのことなのに、偉いね」と言ってもらえた。

そうして今、は長男を産み落とそうとしている。ぶーちんには「本当に清田家には男しか生まれないのか」と笑われたが、ともあれ男の子である。それを待つ信長の脳裏に新九郎との会話がまざまざと蘇る。オレもいつか息子にあんな話、すんのかな。

その時、自分は新九郎のように、さも当然のようにを「この世で一番大事な女」と言えるだろうか。人によっては「子供が何より大事」の方が立派と思われるんじゃないだろうか。というか親父のやつ、つまりたぶん子供より嫁の方が大事ってことなんだよな、あいつめ。

子供の名は決めてある。新九郎が好きな武将の名を付けたがるのは目に見えていたので、先回りして考えてある。けれど、その名を思い浮かべてみても、まだ何の感情も湧いてこない。

親父とか母さんは異様に子供好きだけど、オレ、自分の子供のこと可愛いって思えんのかな……運動会で走ってんの見るだけで泣くようになんのかな……親父と尊は生まれる前から泣きそうだし、分娩始まったよって連絡したらのじいちゃんはその場で泣いてたけど……オレもそんな風になんの?

わからないことだらけだ。

信長がそんな堂々巡りをすること4時間、は無事に男児を出産した。お父さんどうぞ、なんて言われて案内された先には、大仕事を終えて疲れ切っていると、そしてついさっきまでの腹の中にいたはずの赤ん坊がいた。の腹の上でもぞもぞしている。

待っている間、にどんな言葉をかけようか、ということはつらつら考えていた。労ってやらないとな、だけどあんまり大袈裟に言っても鬱陶しいだろうな、看護師さんや助産師さんもいるだろうから、あんまり恥ずかしいようなのもダメだよな。しかしそういうものは全部吹き飛んだ。

信長は腕を伸ばしてと息子をそっと抱え込み、何も言わずに頭を落としての額にそっと触れるキスをした。そして、そのまま静かに涙をこぼした。

嬉しいとか、感謝とか、一体どんな感情が涙腺を刺激したのかはよくわからない。しかし、疲れて半目のの顔を見た瞬間、頭の後ろからゴツンと殴られたような衝撃があって、なんだかはっきりと考えられなくなってしまった。は笑いながら信長の頬を撫でる。

「ねえ、赤ちゃん、かわいいよ、抱っこして、お父さん」

そしてお父さんは息子を抱いて、今度こそ思うのである。

もう迷うことなく「が世界で一番大事な女」だって、言える。

こうして、と信長は、家族となったのである。

END