ヘヴンズ・ドア

「なんでオレまで……
「最近アナさんのお気に入りだからじゃない?」

月曜定休のHeaven'sDoorのカウンターで頭を抱えているのは三井、その横でにやにやしているのはこの春に大学生になったである。ふたりとも決して暇ではないのだが、アナさんから直々に呼び出しを食らったので、同じく呼び出されているというマスターの元にやって来た。

が言うように、三井はすっかりアナさんに気に入られてしまい、に用があると決まって三井も連れて来いと言われるようになった。ただし、アナさんはやマスターのように三井を可愛がっているのではなく、を苦しませたという負い目のある三井をからかうのが楽しいようだった。

だから三井は出来れば行きたくない。

「まあ今日はしょうがない。ちゃんだって普段ならいちいち付き合わせないだろ」
……マスター、なんすかその頭、服」
「旦那に失礼があったらと思うとな、ははははは」

今日のアナさんのご用件は「旦那帰ってきたからロダンまで来い」である。

若気の至りで某国の革命運動に加担してしまい、長く投獄されていたアナさんの旦那がようやく釈放と相成った。アナさんとロダン常連客たちの長年に渡る交渉の結果だそうで、釈放の際には現地まで全員で迎えに行き、また2ヶ月ほどロダンは休みになっていた。

アナさんも旦那も先月には日本に帰国していたらしいのだが、何しろ数十年収監されていたのである。旦那が落ち着くまで時間がかかっただろうし、そもそもアナさん夫婦にとってたちは一番遠くて一番新しい友人であるから、この「呼び出し」も一番最後になって回ってきたというわけだ。

とうとう呼び出しを食らったマスターは普段のちょっとグレた感のあるオシャレマスターから一転、明るい色のシャツなど着込み、髪もびっちり撫でつけてあるという念の入れようだった。よっぽどアナさんの旦那が怖いらしい。

「アナさんが怖いからって、ご主人まで怖いとは限らないんじゃないですか?」
「外国で地下活動した挙句市庁舎とメインストリート占拠して逮捕された人が怖くないわけないと思うよ、オレは」

しかもそれが22歳当時だったというから、相当血の気が多かったと見える。

「翔陽にそんな人がいたとはなあ」
「今の翔陽とはずいぶん違ったんだろうねえ」

部活動が盛んで、真面目で人の良い生徒が圧倒的に多い現在の翔陽からは想像がつかない。特にバスケット部しか知らない三井は余計にイメージが湧かない。翔陽と言えば長谷川に藤真に花形にデカいのがいっぱいというところだ。

「まあアレだ、とにかく今日は頼むよ、ちゃん」
「オレらは静かにしてるから、任せた」
「なんでふたりともそんなにビビってるのよ!」

は憤慨しているが、何しろアナさんもまだ見ぬその旦那も怖い。マスターはいわばロダンから暖簾分けさせてもらったに等しく、アナさんの弟子的立場にある。一方の三井はただでさえアナさんの時点で「ぼうや」なので、その親玉にはどんな扱いを受けるかわかったものじゃない。

なのでこんな時は、誰の心も理由なく鷲掴みのの出番であろう。本人は男ふたりのビビりように呆れているが、三井もマスターも、を表に出しておけば自分は安全と思っている。

アナさんがいてそんな風にことが運ぶわけがないのに。

~。よく来たわね、久しぶり」
「アナさーん、会いたかった」

ロダンに入るなり両手を掲げてアナさんがを迎え入れた。もぎゅうっとハグをしている。その後ろから怖々入ってきた三井とマスターは居心地が悪そうだ。まあ、基本アナさんがいるだけでロダンはドラゴンの住処にも等しいのだから、無理もない。

「あんたたちもよく来たわね。今日は客でいいのよ」
「いえそんな、とんでもないです」
「何をガチガチになってるのよ図体のデカいのがふたつも並んで」

とアナさんが萎縮する三井とマスターを笑っていると、カウンターの裏からカツン、カツン、と硬い音が響いてきた。既に神経が尖っていた三井とマスターはびくりと肩を震わせて固まる。

「いらっしゃい、ああ、君がか」
「はじめまして。お帰りなさい」

アナさんの旦那である。さすがにアナソフィアで6年間鍛えてきたはにっこり笑ってぺこりと頭を下げた。

「私がいない間、環のそばにいてくれたそうだね。さあ、おいで」
「はい、高校生の間、3年間お世話になりました」

怖くてまともに顔を上げられない三井とマスターは、の対人スキルに舌を巻いている。

足を悪くしたのか、杖を突いているアナさんの旦那に請われては手を差し出す。その手と杖を頼りにご主人はロダンのフロアに出てくる。の手を取ったまま悠々とフロアを横切ると、ソファ席の一番奥にどっかりと腰を下ろした。とアナさんに挟まれたご主人はドラゴン使いのようだ。

「ほら、あんたたちも座りなさいよ」
「あれ? もしかして、アナさん、環って」
「ああ、そうよ、私の名前。あら、言わなかった?」

ちらりと振り返ったに、マスターまでぶんぶんと顔を振っている。10年面倒見たバイトにも本名を明かしていなかったとは。しかしそこでと三井もおやという顔になる。ふたりもその子分に当たるマスターの名前を知らない。より三井の方が半年ばかり付き合いが長いが、それでも呼び名はずっとマスターのままだ。

「でも最近名前が変わったのよ~」
「え、もしかして……
「やっと籍入れたのよ」

卒業式の日に逐電して以来海外を放浪し、途中でアナさんだけが帰国し、その後ご主人の方は投獄されていた。旦那だの主人だのと言ってはいるが、結婚自体はできなかったのだ。ご主人は水江さんといい、アナさんは数十年の恋を経てやっと大好きな人のもとに嫁いだというわけだ。

「でもおふたりをお名前でお呼びするのはなんだか変な感じです。パパってお呼びしても?」
「パパか、そりゃいい。私たちはもう子供は持てないからね」

が突拍子もないことを言い出したので三井とマスターの顔がサッと青くなるが、水江氏は顔を綻ばせている。ふたりはやっとまともに水江氏を見られるようになったが、その風貌に何も言葉が出ない。の隣にいる三井はまだいいが、マスターは真正面だ。怖い。

銀色に輝く白髪交じりの髪は長く首元で括られていて、毛先はくるくるとカールしている。少し生え際が上がっているが、その生え際から眉を通り頬に向かって大きな傷跡が走っている。怖すぎる。さらに眼光鋭く、これまた銀色交じりの髭が蓄えられた口元は硬く引き結ばれている。

だが、若かりし頃は相当な美男であったことが容易に想像できる顔立ちだった。アナさんもそれは同じなので、高校生の頃のふたりはさぞかし人目を引くカップルだったに違いない。そのぶん大手を振って交際できる環境ではなかったのだろうが――

「そっちはここで修行したとかいう、ユキか」
「もう随分前になるわ、今度連れて行くから。Heaven'sDoorっていうのよ」
「地獄の門に天国の扉か、うまくできたもんだな」
「ユキ?」

恐縮しているマスターをと三井はきょとんとした目で見ている。マスター、ユキさんていうのか。

「やあだ、あんたも名前教えてなかったの」
「ずっとマスターって呼んでたから」
「寿も知らなかったの? やあねえ」
「いえその、名前なんて別に……

途端にもごもごと口ごもるマスターを見ているアナさんはニヤニヤと楽しそうだ。

「まだコンプレックスなの、いい年して」
「どういうこと?」
「この子、名前がすんごいキレイなのよ」

目を丸くすると三井の前に、アナさんはテーブルに水を零し、指先を踊らせた。

天、野、光、如。

……天の、光の、如く」
「えええ、マスター、すっごいかっこいい! なにこれ! まさにHeaven'sDoor! 必殺技みたい!」
「やめてちゃん本当にやめて」

アナさんの水文字を三井が読み上げると、は歓声を上げた。

「これでミツユキ、だからユキね」
「じゃあこれからユキさんて呼んだ方がいいんすか」
「やめてくれお前まで、マスターでいいって」

マスターは汗だくだ。よっぽどこの聖なる名前が苦手なようだ。マスターは落ち着いていてクレバーな印象があるが、店の営業時間外であれば、どちらかと言えばどんよりとしていることが多いので、名前負けしているのは否めない。しかも店名と合わせると非常に中2臭い。それも嫌なのだろう。

「そっちはなんだったかな、ええと……
「私のダーリンです! 寿くんて言います」

マスターと三井は勢いよく水を噴き出し、慌てておしぼりで拭いている。いくらロン毛時代に比べると丸くなったとはいえ、今でも試合の最中に睨みで相手を威圧している三井である。それがダーリンとは噴飯ものではある。

「このバカはね、置いて姿くらましてたのよ」
「ア、ア、アナさんそれは!」
「まあオレは人のこと言えた立場じゃねえけどな。、辛かったろう」
「いいんです、寿くんも大変だったから。あっ、そうそう、寿くんバスケやってるんです。翔陽に勝ったんですよ」

それを数十年前の翔陽卒業生に言うんじゃねえ! と言いたい三井だが、声にならない。しかも勝ったと言ってもただの一度きりだ。その上三井に関して言えば、いくら復帰間もないとはいえフル出場はならなかった遺恨の残る試合でもある。

「ほう、どこなんだ、高校」
「しょ、湘北っす……
「湘北!? なんだ翔陽は情けねえなあ。オレたちの頃は湘北なんて小物揃いでなあ」

ふたりが高校生だった頃というと湘北などまだ新設校時代である。小物揃いなのは仕方あるまい。水江氏はソファの背もたれに深く身を沈めると、大きく息を吐いた。数十年投獄されていた割にはがっちりとした胸がゆっくりと上下する。

「そうか、高校か、懐かしい。後悔などしていないけれど、今でも不思議なんだ」
「何がですか?」
「花迎えさ」

マスターが首を傾げるので、が簡単に説明し、ついでにアナさんが三井も今年花迎えをやったのだと付け加えた。マスターのむずむずした口元に三井はがっくりと頭を落とした。強烈に恥ずかしい。

「確かに花迎えをするためにアナソフィアに行ったんだ。だけど、駆け落ちするつもりはなかった」
「え、でも渡航費とか当座の生活費とか貯めてたって……
「それは自分がひとり立ちするために貯めていた金だ。早めに自立して仕事に就くつもりでいたから」

アナさんはそれを小さく頷きながら聞いている。帰国してから知った事実なのかもしれない。

「自慢じゃないが私は生徒会長も務めたし常に首席だったから、当然進学を勧められた。今思うとそれほどの学力ではなかったけれど、東大を目指せと何度も言われたよ。だけど、環と一緒にいたかった」

遠い日の恋の物語にはつい感嘆の声を上げた。

「しかしこれでも環は旧家の血筋だから、アナソフィア首席でも進学は許されなくてね。私が4年も学生をやっている間にどこかに嫁がされるのは目に見えていた。だから早く仕事に就いて一緒になろうと考えていたんだが、花迎えをしに行って、環の両親を見て頭に血が上ってしまったんだ」

見るからに立派なご両親だったと水江氏はため息をついた。

「その間に挟まる環はお姫様のようだった。私は普通の、いや少し貧しいくらいの家の出だ。しかもかっこつけてぼろぼろの学ランを着ていた。……絶対に引き離されると思ったんだ」

うっとりして話を聞いていたの表情が変わる。だいぶ状況は違うが、どこかで聞いたような話だ。

「例え慎ましく暮らしていても、日本にいてはいつか捕まると思ってしまったんだな」
「そこで高飛びしようと思いついたんですか」
「そう。だから実際に日本を出たのはそれからしばらくしてからだよ」
「私のパスポートをどうにかして自宅に取りに行ってもらったりね」

そうやってふたりの逃亡を手伝ってくれたのが、今のロダンの常連さんたちなのだという。つまり、常連さんたちの殆どはかつての翔陽生、アナソフィア生ということになる。何か手がかりがあるかもしれないとアナさんの部屋に通してもらい、必要なものを持ち出したのが現在のアナソフィア中等部の教頭と聞いても水を零した。

「そこからの数年はどれだけ幸せだったかわからない。私と環だけの世界だ。誰も邪魔する者はないし、日本とは時々連絡を取っていたけれど、仲間たちが近況を教えてくれるおかげで困ることはなかった。――だから私は愚かにも革命運動などというものに首を突っ込んでしまったんだな。誰も止める人がいなかったから」

水江氏は煙草を取り出すと、マッチで火を付けて深く吸い込む。甘い香りの煙がロダンの中に漂う。

「予定とは違ったけれど環はいるし、なぜか不思議なほど外国暮らしも順調だったし、何も怖いものはなかった。何でも出来ると思っていたんだな。圧制に苦しむ貧しい人々を救わねばということしか、あの頃は考えられなかったんだ。環がいればそれでよかったのに、ひとりで日本に送り返した結果がこのざまだ」

優しく微笑むアナさんが水江氏の手を握り、そっと撫でる。きっとアナさんはそれを恨んだりしたことなどなかったのだろう。水江氏は後悔に苛まれたのだろうが、アナさんはこのロダンで、地獄の門の前で待ち続けた。実家に頭を下げて助力を請うこともせず、自らの恋を貫いたのである。

「寿と言ったか……この様子じゃ、は心変わりもせずに待っていたんだろう?」
……はい」
「まったく女ってえのは参るよな。こういうことになると胆力が違う」

えへへ、とは照れつつ、三井の手を取った。

「昔の環を見てるようだな。おい、寿、もうたぶん一生離してくれないぞ。覚悟しとけよ」
「あらあ、それじゃあ困るみたいな言い方! 誰のおかげで戻ってこれたと思ってるの」
「ほら、こういうことになる」

やっと三井とマスターは笑った。水江氏は確かに怖いが、どうやらアナさんには頭が上がらないらしい。

「じゃあそろそろお食事にしましょうか。、手伝って。マスタードチキンにしたのよ」
、環に仕込まれてるそうだな。旨いものを頼むよ」
「はーい!」

ロダンの隠れた逸品、アナさんの得意料理であるマスタードチキンはこういう特別な時にしか振舞われない激レアメニューである。マスターも練習しているらしいが、まだまだ同じ味にならないのだという。残された三井とマスターはまた妙な緊張に襲われたが、水江氏は一気に砕けて表情が柔らかくなる。

「ふたりとも環にしごかれてるんじゃないのか」
「いえその、オレはもう。今はこいつの方が突付かれてるらしいんですが」
「大したことじゃないです。今東京にいるので、そんなに頻繁に来られないですし」

遠慮しあうふたりにまた水江氏はくつくつと笑う。

「時間にして4年くらいあちこちを転々としてたんだが、なぜか子供が出来なくてな。もし出来れば日本に帰ってもいいと思っていたんだ。子供がいたらオレもあんな真似はしなかっただろうし、せめてひとりでも授かっていたらと今は思うよ。きっと環の支えになってくれただろうからね」

アナさんが母親というのも想像できないが、面倒見はいい。それはマスターが良くわかっている。

「まあ、その代わりにお前たちみたいなのがしょっちゅうここに来てくれてたわけだから、それも縁だがな。というか、寿はあれでいいとしても、ユキ、お前はどうなんだ。もう四十近いんじゃないのか」

マスターがぎくりとして背筋を伸ばす。マスターは一応30代前半なのだが、反論はしない。

「どうと申しますと……
「所帯持ってないのか」
「ははは、そんなオレには到底無理な話ですんで……
「なんでだ」
「えっ!? なんでだと言われましても……今のところ夜の商売ですし、なあ」

同意を求められてもどうすることも出来ない。三井は少し逃げ腰になっている。そもそも三井にとってマスターは友達レベルの人間ではなくて、やさぐれた高校生を店に入れてくれるちょっと気の利いた兄貴であったのだ。こんなうろたえた姿は本当なら見たくなかった。

「今は仕事か。まあそれもいいだろう。今度店に行かせてもらうよ」
「はっ、はい、いつでも。ごく稀にですが……アナさんに歌って頂いたりもしてます」
「へえ、そりゃあいい。そうか、なるほどな、お前はピアノを仕込まれたんだな」
「はい。10年かかりましたが。ちゃんは歌わされてるようです」

水江氏はさも可笑しそうに笑っている。何十年と離れていても、アナさんのことはよーくわかっているのだろう。

「いやあ、懐かしい顔ぶれもいいんだが、こういう新しい友人が持てるというのは素晴らしいことだな。おい、ふたりとも、暇じゃあねえだろうけど、たまにはこうして顔を見せてくれ。子供は授からなかったがもお前らも娘息子みたいなもんだ。ぜひお前たちの子を抱かせてくれよ」

幸せいっぱいといった表情の水江氏の前で、また三井は水を噴き出した。

「なーにを照れてるんだよ、オレがくたばる前に頼むぜ」

アナさんのマスタードチキンとシャンパンのディナーを終えると、水江氏がまだまだ体が本調子ではないというので、たちはロダンを出てHeaven'sDoorへ戻ってきた。よほど疲れたのか、マスターは戻ってくるなり襟元を緩めてソファ席にひっくり返った。

「マスター大丈夫?」
「悪ィ、ちゃん水割り作ってくれ。てかふたりとも適当に好きなの飲んでいいぞ」
「マスター本当に大丈夫すか」

素直にカウンターの中で水割りを用意するの代わりに、三井はソファにひっくり返っているマスターを覗き込んだ。マスターは自分の店の中のこととなると馴れ合うのを特に嫌っていて、こんな風に好きなものを飲めなどとは決して言わないタイプの人間なのである。様子がおかしい。

「おう、お前もお疲れ。まさか旦那にあれほど気に入られるとはな」
「いえまあ、どうしようかとは思いましたけど……

食事の最中にグレまくっていた過去を暴露された三井だったが、それを聞いた水江氏がまさかの食いつきを見せ、それに気をよくしたアナさんも散々三井を突っつき、結果として三井は新婚ホヤホヤの水江夫妻の大のお気に入りとなってしまった。

水江氏など、帰り際に三井の肩を掴んで、ひとりでもいいから遊びに来いと言い出す始末。

……でも一度とアナさんのいない所で話してみたいとは思いました」
「ははは、まったくだな。誰の話を聞いてんだかと思ったよ」

ソファにひっくり返ったマスターは腕で顔を覆って深く息を吐いた。

……鉄男に連れられて入り浸るようになった目つきの悪いのが、何で今こんな風になってんだろうな」
「マスター、お邪魔なら帰りますよ」
「なんだよ、たまの年寄りの愚痴くらい付き合えよ」
「そんなこと……本当にどうしたんですか今日は」

まだカウンターでが格闘しているのを確認すると、マスターはちらりと三井を見上げて呟いた。

「ちょっと羨ましくなったんだよ、お前らと、アナさんたちと」
「マスター?」
「オレにも昔、アナさんやちゃんみたいなのがいたんだよ、アナソフィアの天使だった」

三井は言葉を失って、ずるりとソファに身を沈めた。真向かいでひっくり返っているマスターが知らない人のように見える。視線を巡らせれば、はまだ何やらカウンターの中でちょこまかと動いている。声は届かないはずだけれど、三井は囁くような声で問いかけた。

「別れちゃったんすか」
……本物の天使になっちゃったからな」

ぐっと三井の喉が鳴る。Heaven'sDoorという名が胸に突き刺さる。

「そのせいで自暴自棄になってたオレを拾ってくれたのがアナさんだったってわけだよ」

マスターは天井に向かって手を伸ばした。薄暗い階段を下りた先にHeaven'sDoor、ロダンの地獄の門と対をなす天国の扉ではなくて、それはマスターの天使の居場所に通じる場所なのかもしれない。

がカウンターから出てきたので、マスターはにやりと笑って体を起こす。

「もう20年近くも引き摺ってんだから、情けねえ話だけどよ」
「マスターやっぱりあんまり顔色良くないですよ、はいこれ。寿くんにはこれね」
「あれ? ちゃんこれホット梅酒じゃんか。って三井はハイボールとかなんだよ」

三井の隣に腰を下ろしたはライチソーダを手にしている。どちらも混ぜただけ。

「だってマスター、なんか変だもん。こんな時に強いお酒なんか飲んじゃだめですよ」
「それでホット梅酒とか、あの時のお返しか?」
「お返しって、私はあの梅酒とアナさんの歌に助けてもらったんですよ」

ぐすぐず言いながらもマスターは白いカップで湯気を立てるホット梅酒を口に含む。少し酸味があって少し甘くて、そして何より暖かい。マスターはカップを両手でくるんで、またソファに深く身を沈める。

「そりゃあ私たちなんてマスターから見たら子供だろうけど、心配してるのはアナさんと同じですからね」
「ははは、本当に君らは恐ろしいわ」
「なんにも話してくれなくたっていいですよ。だけど、元気出してね、マスター」

の言葉に、マスターはこれまでにないほど柔らかく、そして少し悲しげに微笑んだ。

「じゃあちゃん、歌ってよ。オレ弾くから」

その後、の目を盗んでウイスキーを飲んだマスターを無理矢理タクシーに押し込んで帰らせたと三井は、今度こそぐったりと疲れて駅までの道のりを歩いていた。ふたりとも翌日は普通に学校である。

三井は悩んだ末に、マスターの天使の件をに話すことにした。ショックを受けるかと思っていたのだが、どうやらは学校やアナさん経由でなんとなく話を聞いていたようだ。

「その人のことは割とアナソフィアでは知られた話で……そっか、マスターのことだったんだ」

アナソフィアの彼女とふたり、制服で歩いていたところを不良少年に絡まれた若き日のマスターは、なんとかして彼女を守ろうと盾になった。だが、殴られて昏倒、助けを求めようと走り出した彼女は追いかけられてパニックを起こし、車道に飛び出した。そこへ大型車が突っ込んできてしまった。

マスターの方も3日間ほど意識が戻らなかったこともあって、一部では大変有名な武勇伝として知られているが、少年のその後について知る人はいなかった。母親や学校内で語り継がれている話を聞いて知っていたは落ち込んだ様子もなく、しっかり前を向いて歩いている。

「今日のアナさん、とっても幸せそうだった。前みたいな怖さがずいぶんなくなっちゃった気がする」
「旦那も見た目ほど怖くなかったよな。ものすごい辛かっただろうに、なんだか幸せそうだった」
「マスターも幸せになってくれないかなあ」

は繋いだ手をぶんぶんと振りながら、ふいにぴょんと飛び上がった。

「私、マスターに岡崎ちゃん紹介しようかな」
「はあ!? お前な、今からそんな世話焼きババアみたいなことばっかりしてどうすんだよ」
「ちょっと若いけど同年代よりはマシでしょ」

聞いてない。

「専門忙しいみたいだけど、もし本当にダンサーで就職できちゃったらもっと時間ないし」
「ちょ、、落ち着け」
「え、だめ?」

だめと言われればそれほどだめでもないような気がしてきた。三井はかくりと頭を落として苦笑い。

「人のこと気にしてる場合かよ。今日オレが旦那に何言われたと思ってんだ」
「なんか余計なこと言われたの?」
「オレがくたばる前にお前らの子供抱かせろ、だとよ」

マスターの幸せのためにひと肌脱ぐ気になっていたは不意打ちを食らっておおいにむせた。

「まったく気が早いよな。自分の孫みたいに言うなってんだよ」
「そそそそれ、寿くんなんて、へん、返事したのよ」
……だったら長生きしてくれって言っといた」

水江氏は「違いない」と言って、にやりと笑った。も少し俯いて微笑んだ。

さっと風が吹きぬけ、揃ってふたりが見上げた夜空にはきれいな三日月が浮いている。ふたりは細い三日月の光が照らす駅までの道を歩く。ふたりが歩く月の光が照らす道は、どこに続いているんだろう。

細く長く伸びるその道の上、ずっとこうして手を繋いでいられたら――

そこにはきっと天国へ続く扉が待ってるに違いない。

END